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サーブのルールを覚えよう

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サーブのルールを覚えよう

卓球~サーブのルールをかんたん解説!

 

 

今回はサーブの基本ルールを見ていきます。

 

 

卓球を遊びではなく、競技としてやるとなると、守らなければならないルールがサーブに出てきます。

 

 

卓球のサーブはけっこう守らなけらばならないルールがおおく、ルールを知らないと、知らないうちに、違反サーブになりがちです。

 

 

僕の体感からいくと、卓球初心者さんの80%くらいは、ルール違反のサーブになってます(^_^;)

 

 

初心者のうちに覚えて置かないと、後々困るので、今のうちに覚えるようにしておきましょう。

 

 

卓球~サーブのルール

 

 

サーブは自分のコートにワンバウンドさせる

 

 

これは、知っている人が多いと思います。ルールというか、サーブの仕方ですよね。

 

サーブは、自分のコートにワンバウンドさせてから、相手のコートに入れるのが、ルールです。破ったところで、反則にはなりませんが、このルールを破った場合、即、相手の得点になります。

 

 

 

サーブは、16cm以上あげる。

 

 

トスの高さは16cm以上あげなければなりません。

 

 

※具体的に、もっと細かく決まっていますが、基本16cmを基準にすればよいでしょう。

 

 

なぜこんなルールがあるかというと、あまりにも、低いトスでいきなり打たれると、相手に不利なので、トスの高さが16cm以上と決められているんですね。

 

 

ちなみに高さは、制限がないので、いくら高く上げても大丈夫です。

 

 

ちなみに16cmは思っているほど高くないので、これに引っかかる人はあまりいないと思います。

 

 

でも、たまにルール違反すれすれの高さの人が卓球経験者でもいます、なかなか困りますね(^_^;)

 

 

 

手のひらを開いてサーブをする

 

 

これは卓球初心者がよくやってしまいがちなミスで、てのひらをちゃんと、開かずにボールを隠してサーブしてしまう人が多いですが、これはだめです。

 

 

ちゃんと手を開いて、てのひらに乗せてサーブをしてください。手で隠されると相手はボールが見えなくて困りますから。

 

 

初心者のうちはこの状態でサーブをするのは、難しいですが、最初のうちに直しておかないと、後々、困るので、意識して練習しておいてください。

 

 

ちなみに僕は、後から直したので、かなり大変でした。癖がついてしまっていたので(>_<)

 

 

 

サーブをする前にいったん手を静止する

 

 

サーブをするために、ボールをてのひらをのっけた状態で、打つ前にいったん静止させるのが、公式のルールです。

 

 

あんまりこのルールは、厳格に守られてない気もしますが、お互い気持ちよく卓球をするためには、細かいルールもしっかり守っていきましょう。

 

 

 

 

台より上からサーブする

 

 

これも卓球初心者さんが間違いやすいミスなのですが、台の下からボールをあげてサーブをしてしまう人が多いです。

 

 

これも相手からすると、ボールがよく見えなくて、困るので、しっかり相手に見えるように、台の上の位置からサーブをするように心がけましょう。

 

 

 

ラケットを背中で隠さない

 

 

これはおまけです。初心者のうちはあまり気にしなくてもいいかもしれませんが、癖がある人は直しておいてください。

 

 

卓球は、うまくなると、相手のラケットの角度で、球の回転を見極めたりするので、ラケットを背中で隠されてしまうと、相手が困るので、やめましょうということです。

 

 

※背中で隠されると本当に困るので、卓球に慣れてきたら、絶対にやめてくださいね(^_^;)

 

 

 

ネットにあたって相手のコートに入ったら、サーブはやり直し、ネットにあたって自分のコートに入ったら、失点になる

 

 

サーブが、ネットにあたってから、相手のコートに入ったら、それは、有効打ではなく、サーブが打ち直しになります。点にはならないので、ご注意を。

 

 

サーブがネットにあったて、自分のコートに跳ね返ってきた場合は相手の点になります。

 

 

 

 

以上で、卓球のサーブの基本ルールは終了です。てのひらを開いたまま打ったり、卓球初心者のうちは難しいかもしれませんが、すぐできるようになりますので、頑張ってみてください。

 

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そこで、卓球を本格的に初めて見たはいいものの、

 

 

どんなラバーを最初に使えば良いか、わからない、

 

 

どのラバーにしようか迷っている

 

 

まずは、初心者に定番のラバーを使いたい

 

 

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初心者に最適な打球感

 

 

と、初心者さんにとって、大事なポイントをすべておさえたラバーになっていますね(^^♪

 

 

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卓球のツッツキってどんな感じ?

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卓球のツッツキってどんな感じ?

卓球~ツッツキ

 

 

 

 

卓球のツッツキについての解説です。

 

 

ツッツキってなんだ?という卓球初心者さんも、ちょっとは知っているという人もここで、しっかりと確認しておきましょう!

 

 

※なお、この記事は卓球のツッツキ自体の解説ですので、打ち方に関しては、こちらを参考にしてください。

 

 

卓球~ツッツキの打ち方

 

 

では、書いていきますね(^^)

 

 

 

 

卓球のツッツキを知ろう!

 

 

ツッツキとは?

 

 

ツッツキと言うのは、ラケットをつっつくようにして振り、下回転をかける技のことです。

 

小さいカット、振らないカットっていう感じですね。ラケットをつっつくように振るので、この名前になったんだと思います。

 

 

 

卓球~ツッツキ

 

 

ツッツキの役割は?

 

 

相手のボールに下回転がかかっているときに使います。

 

 

相手のボールに下回転がかかっているときは、普通に打ってもボールが下に落ちてしまうので、このわざを使い、下回転をさらに、かかった下回転にして返します。

 

 

※ちなみに下回転を返す方法は、他にもあります。

 

 

難易度は?

 

ツッツキは、コツをつかめるかで結構、できる人と、できない人がいたりします。

 

 

また、バック面でのツッツキは、できる人が多いですが、フォアのツッツキは、卓球初心者さんには、けっこう難しいと思います。

 

 

※僕も、フォアツッツキはコツがつかめず、習得にかなり時間がかかりました(^_^;)

 

 

ツッツキの利点

 

 

ツッツキの利点は、なんといっても安定性です。

 

 

打たずに、つっつくだけなので、相手の回転を読み間違えなければ、ミスることは、まずありません。安定性に優れたつなぎの技といってた感じです。

 

 

中学生や、小学生の卓球だと、攻撃に不安を持っている人が多いので、ツッツキVSツッツキで、相手のミスを待つ感じになっている場面が良く見られます(^_^;)

 

 

ツッツキの弱点

 

 

ツッツキの弱点は、回転を見誤った場合にあります。

 

 

ツッツキは、下回転をとるためにあるので、上回転や、ロングサーブをツッツキしてしまうと、浮いたボールが返ったり、台から出たりと、悲惨なことになります。

 

 

卓球初心者さんが、ツッツキをおぼえると、なんでも万能だと思って、どんなボールにもツッツキを使ってしまうケースがとても多いですね(^_^;)

 

 

※うまい人になると、横回転や、上回転をうまくツッツキする人もいます。

 

それでも限界はありますけど・・・

 

まあ、とりあえず最初のうちは、下回転が来た場合に、ツッツキは使うと覚えておけばよいでしょう(^^♪

 

 

 

ワンポイントアドバイス

 

ツッツキは、卓球の中では、避けて通れない、超基本の技です。ですので、しっかりと、使い方と打ち方をおさえて、上手くなる土台を作りましょう。

 

 

 

卓球~ツッツキ・まとめ

 

小さくつっつくように振るのが、ツッツキ

 

ツッツキは相手が下回転を出してきたときに使う

 

ツッツキは、卓球で、とても大事な技

 

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ラバーの重みが少ないので、操作性が抜群

 

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と、初心者さんにとって、大事なポイントをすべておさえたラバーになっていますね(^^♪

 

 

ちなみに、ラバーを選ぶ際は、ラバーの厚みを自分で選びますが、この点に関しては、スレイバーfxの中~厚くらいのものが最適です。

 

 

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卓球でツッツキをマスター!

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卓球でツッツキをマスター!

卓球~ツッツキの打ち方




卓球のツッツキの打ち方を解説していきます。


ツッツキは、卓球の中でも基礎の基礎というくらい大事な技なので、


ここで、しっかりと打ち方をマスターしておきましょう。


卓球初心者さんには、ツッツキはコツがつかみにくいので、打ち方と合わせてコツも、書いていきますね(^^♪


※ツッツキをよく知らない、卓球初心者さんはこちらの記事からどうぞ

卓球~ツッツキ




基本的なツッツキの打ち方



フォアツッツキの打ち方

ラケットを斜めから下方向にいれて、腕が伸びきらないように、曲がったままの状態でボールに当てます。

そして、ボールの深さに合わせて、自分がラケットを持っている手と同じ方向の足を前に踏み出しながら、ボールをつっつくように軽く、下に向けて振ります。






卓球~ツッツキの打ち方




※僕は左利きです。画像だと、ちょっとラケットを寝かしすぎてる気がするので、もうちょっとラケットをたててもらうとよいです。





バックツッツキの打ち方


バックツッツキの場合は、ひじの角度をだいたい、70度くらいに設定して、ボールのバウンドに合わせて、ラケットを入れます。

足の動きは、ラケットを持っている手と同じ足を踏み出しますが、深いボールが来た場合、無理に踏み出す必要はありません。これは、フォアも同じですが。

また、バックの場合、フォアつっきよりあてる位置が体に近くなってると思います。



卓球~ツッツキの打ち方


※僕は左利きです。ちなみに上も下も自分から見た図です。



打ち方のコツ



腕が伸びきらないようにする

卓球初心者さんの、ミスでありがちなのは、ボールを自分から、追いかけて、腕が伸びきった状態で打ってしまうことです。

特にフォアでツッツキをする場合に、このミスが起こりやすいので、気をつけてください。


ひじをしっかり曲げた状態のまま、ボールを待って打つことを心がけてみましょう。



ラケットをおおきく振らない

ツッツキは、卓球~ツッツキの所でも話したように、小さく振るつなぎの技です。

ですから、ツッツキをあまりに大きく振ってしまうと、それはカットになってしまいます。

小さくつっつくように振るこれがポイントです。


卓球初心者さんには、ツッツキをしようと思っていても、カットになってしまう人がいますが、

カットの場合、ツッツキと違って、ラケットが横の位置から、でて、片足が後ろにひいた状態の打ち方になっていますから、心当たりのある人は、確かめてみましょう。



回転に合わせて、角度調整する

上の2つコツをクリアしたら、たぶん形(打ち方)はツッツキになっていると思います。


あとはコートに入れるだけですが、ツッツキは、相手の下回転の量に合わせた角度調整が必要になってきます。


飛んでくる下回転の量は相手によってちがうため、毎回、おなじ角度で、ラケットを入れるということはありません。


かかっていればいるほど、下に落ちてしまいますし、逆にかかっていなければ、浮いたボールがかえってしまうので、適切なラケットの角度が必要になります。


このへんのさじ加減を調整するのは、卓球初心者さんには、難しいかもしれませんが、


一般に


下回転の量が多く、下に落ちてしまう時⇒ラケットの角度を緩やかにして、下にツッツキ


下回転の量が少なく、浮いたボールになってしまう時⇒ラケット角度を急にして、下にツッツキ


で、だいたい調整できます。



まあ、相手ごとに変わるといっても、めちゃくちゃ回転量が異なることは、少ないですので、だんだんと慣れていけると思います。



ワンポイントアドバイス


卓球初心者さんにとっては、フォアツッツキの方が、バックツッツキより難しいと思います。

僕も、バックツッツキはすぐできましたが、フォアツッツキは、習得まで、かなり時間がかかりました(^_^;)

ただ、自分のなかで打ち方のコツをつかめれば、すぐできるようになりますので、粘り強く練習していきましょう!



卓球~ツッツキの打ち方・まとめ


ツッツキはひじを曲げた状態で打つ

ツッツキは小さく振る

回転量にあわせてラケットの角度をつくる

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Rallys

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  1. 卓球専門メディア Rallys

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    2018年10月に誕生した卓球“ノジマTリーグ”に参戦する「T.T彩たま」の公式アカです! 卓球を通じ、世界中に埼玉県の知名度を上げ国際化に貢献できるよう活動して参ります! 皆様のご支援、ご協力、ご声援で「T.T彩たま」を情熱的で熱いチームに育てたく、 何卒宜しくお願い致します!

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    卓球選手/岡山リベッツ所属/日本卓球(Nittaku)/Shakehands/西東京市出身/マネジメント→マザーランド 講習会などお仕事のご依頼はこちらからお願いします🏓

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  4. 世界ジュニア終了‼️🇦🇺 最後まで応援して下さった方々本当にありがとうございました👍✨✨ 決勝戦で中国の選手に負けてしまい惜しくも2位でしたが課題は沢山見つかったと思います‼︎ 来年、世界ジュニアもう一度チャンスがあるので優勝出来るようにまた頑張ります💪🔥


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  8. ※Rallysでは卓球が縁で結婚したご夫婦のエピソードを募集しています。お話をお聞かせいただける方々は までご連絡ください。

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【頭で勝つ!卓球戦術】初心者でも勝てる!最初に習得すべき「たった2つの技」

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【頭で勝つ!卓球戦術】初心者でも勝てる!最初に習得すべき「たった2つの技」
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文:若槻軸足(卓球ライター)

卓球で勝つには「相手よりも1本多く返せばいい」

あなたは、卓球はどういった人が勝てるか知っているだろうか?

誰よりも複雑なサーブを出せる人か。

リターンの必殺技「チキータ」を繰り出す人か。

目にも止まらぬ速さのパワーボールを打てる人か。

正解は、「相手よりも1球多く返せる人」である。

バスケットボールは、通常は1ゴールで2点、より遠くからゴールすれば3点が入る。

しかし卓球にスリーポイントシュートはない。
どんなに壮絶な長いラリーを制してもスーパープレーが炸裂しても1点。
相手のサーブミスでも、同じ1点なのだ。

また、野球のように“見逃し”なんてものもない。
「このボールは速すぎるから、勝負しないでおこう」
などと悠長なことを言っている暇はない。返ってきたボールは問答無用で全て返さなければならない。

逆に言えば、返ってきたボールを全て返すことが出来れば、どんなにパワーがなくても、身体能力が低くても、勝つことが出来る。

これが卓球の面白いところでもあり、同時に難しいところでもある。

そして、相手より一本多く返す為に最低限必要な技術、とりわけ初心者の方にまず練習して欲しい技術が2つある。

ツッツキ」と「ブロック」だ。

卓球のボールの回転は、大きく分けると2種類しかない

卓球のボールは、常に回転している。

その最たるものがサーブだ。サーブから複雑な回転をかけて相手を惑わせ、ミスを誘う。その後は、強烈なドライブ回転をかけてラリーの応酬を繰り広げる。

と言いつつも、大きく分ければ、実は回転は2種類しかない。
すなわち、「下回転系のゆっくりボール」と、「上回転系の速いボール」の2種類だ。

下回転のゆっくりボールは、全てツッツキで返すことが出来る


サーブ、レシーブといったラリーの序盤は、ほとんどが「下回転系のゆっくりボール」で始まることになる。

それらは、横回転やナックルの無回転、等色々あるが、なにはともあれ、角度を調整して「ツッツキ」で返球すれば、多少ボールが浮いても、相手コートに「入れる」ことは可能だ。このときに、相手のボールにそっと合わせるのではなく、しっかりと自ら下回転をかけるように意識すると、浮いたボールになってしまっても、相手の返球を難しくさせることが可能だ。

注:ツッツキとはラケットの面を上に向け、台上でボールの下をこすり、下回転で相手に返球する方法で、この動作がボールをラケットでつつくように見えるため、こう呼ばれている。

例えば、最も基本的な打ち方であるフォアロングを覚えたばかりの卓球の初心者が、経験者と試合をして勝てる確率は1%もない。
なぜなら、「下回転系のゆっくりボール」は、フォアロングでは返球出来ないからだ。

回転に負けて、ネットを越えることなく、自分側のコートに落ちて、ミス。
その後も永遠に下回転系のボールを出されて、永遠に返球出来ずに、負ける。

これはもはや地球から重力が無くなるくらいのことが無い限り変わらないだろう。

ツッツキはまず初心者が覚えるべき、最低限の技術である。

上回転系の速いボールは、ブロックで返すことが出来る


下回転系のゆっくりボールを返した後のラリーは、必ず「上回転系の速いボール」になる。
これを返球する際に必要な技術が、ブロックだ。

初心者の方は、とにかくまずはドライブやスマッシュといった、「攻める技術」を練習しがちだ。

しかし本来先に習得すべきなのは「強打されても安定的に返すことができる」ブロックからである。
なぜなら、ブロックの方が簡単だからだ。

たとえば、初心者がドライブを覚える為にはハードルが多い。

ボールに反応し、ボールが来た位置に動き、自分のポイントに合わせて、体重移動をし、ボールをラケットに「食い込ませる」感覚を意識し、回転をかけて弧線を描く打ち方を覚え、しっかりとスイングをし、その後はすばやくニュートラルの姿勢に戻り相手の返球にしっかりと準備をする。

といった一連のフォームを身体に覚えこませなければならない。
これは非常に難しい。
攻める技術は、身体を大きく使う分、覚えるのも大変なのだ。

(余談だが、卓球を15年やっているわたしも、フォアスマッシュのスイングが全く定まらない。)

さらに言えば、「攻める」技術は体力を消耗する。
当たり前の話だが、ブロック対ドライブの練習で、疲れるのはドライブで攻める側である。
強い、速いボールを打とうとすれば、それだけエネルギーも消費するわけだ。

一方で、ブロックという技術は非常にシンプルだ。

ボールに反応し、ボールが来た位置にラケットを動かし、相手の上回転に負けないようにラケット面を被せてボールに当てさえすれば、返球が出来る。

返球が出来たとき、相手のボールが速いほど、自分のブロックのボールも速く返る。
そのように相手のボールの威力を利用して速いボールで返球することが出来るのだ。
なおかつ自分は疲れない。

それに対して相手は、速い攻めるボールを打ってエネルギーを消費した後に、態勢を整えて次のボールに対応しないといけないので、どうしても体力を消耗する。

初心者同士の試合でなら、攻撃をブロックされた後も何本も連打出来る選手は、めったにいない。必ず何本目かで体勢が崩れて、甘いボールが返ってくる。

対してブロックする側はブロックの練習をしておけば、必ず相手より先に有利な展開に持っていくことが出来るであろう。

こちらは、2009年の世界選手権横浜大会の、松平健太vs馬琳の試合。
卓球ファンの間では知らない人のいない伝説の試合。「これが卓球だ!」でおなじみのあれである。

誰しもが絶対的な実力者の馬琳が勝つだろうという空気のなか、手首をやわらかく使って逆をつくレシーブと、前陣での華麗なブロックで、馬琳を振り回す松平。
あと一歩で勝利というところまで追い詰めた、今後も語り継がれるであろう名勝負だ。

バックハンドが苦手な馬琳はとにかくフォアハンドを使って食らいつくが、それをいともたやすくブロックする展開。馬琳は体力消耗による汗と、負けるかもしれないプレッシャーの冷や汗がだらだらである。

そしてこの大会の4年後の2013年、松平健太は世界選手権パリ大会で格上の馬琳と再戦。この時も前陣でのブロックが冴え、今度は見事に馬琳を破った。

このように、過去の実績が劣る選手であっても、しっかりとしたツッツキとブロック技術があれば格上とも互角以上に戦うことが出来るのである。

ブロックを確実に決める為には、ツッツキが重要

とは言うものの、どこに打ってくるか分からない相手の速いボールに対して、反応してしっかりと面を作ってブロックするというのは、そう簡単なことではない。

なので、その一つ前のボール、すなわち「ツッツキ」を厳しく送るのだ。

先ほども述べたように、なるべく下回転を多くかけて返球する、だけでなく、厳しいコースに送ったり、相手の逆を突くモーションで打ったり、タイミングを外したり、といった「ちょっとした工夫」は必要になってくる。

五輪王者である中国の馬龍も、レシーブでツッツキ等をする際、必ずといっていいほど、ほんの少し相手を惑わせるモーションが入っている。

初心者がいきなりそこまでやるのはやはり難しいので、まずはしっかりと回転をかけて相手コート深くにツッツキを出来るように練習すること。

そうすれば、相手の「攻めるボール」の威力が弱まり、こちらがブロックをしやすくなるので、「相手より1本多く返す」ことが可能になるのである。

終わりに

このように、たとえ初心者であってもツッツキとブロックさえ出来れば、試合はなんとかなる。
むしろ、この2つが安定していれば、ボールを相手よりも1球多く返すことができ、逆に相手は、「何を打っても返される」というプレッシャーとも戦うはめになるので、非常に効果的だ。

ついつい攻める練習ばかりしがちな初心者は、まずしっかりとツッツキとブロックの2つ磨くことをオススメする。

また、なかなか安定して勝つことが出来ない中級者も、基本に立ち返り、ツッツキとブロックを極めよう。試合で勝つ為のしっかりとした土台作りには、この2つの技術の向上は必須である。

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卓球の「ツッツキ」とは?打ち方と練習法

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卓球の「ツッツキ」とは?打ち方と練習法

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*写真はジャパンオープン2018の長崎美柚(JOCエリートアカデミー)


卓球ライター若槻軸足がお届けする「頭で勝つ!卓球戦術」。

今回は卓球において最も基本的で最も重要と言ってもよい、「ツッツキ」という技術について考えてみたいと思う。かなり基礎的な内容なので、熟練者の方には物足りないかもしれないが、卓球を始めたばかりの初心者の方や、初心者も担当する指導者の方はぜひ読んで欲しい。

「ツッツキ」とは

卓球の経験が無い人に説明すると、間違いなく二度聞きされる。「え?つっつき?つっつくの?なにを?」こんな経験がある方も多いのではないだろうか。語源についてはさておいて、「ツッツキ」という技術について考えてみたいと思う。

ツッツキとは簡単に言うと、「下回転のボールに対して、その回転に逆らわずに返球する技術」である。これだけでは分からないと思うので、具体的に見てみる。

まず卓球は基本的に、どんなボールにも「回転」がかかっている。何気なくサーブを出していても、台に2度バウンドするので、その時点でボールが向かう方向への前進回転(ドライブ)が必ずかかっている。なので、ラケットの角度を立てて、卓球台と垂直にして返さないと、ぽーんと浮いたボールになってしまうのだ。

卓球素人の温泉卓球をイメージしてみるとよい。「ぴーん、ぽーん」というふんわり浮いた山なりのボールでのラリーになることが多いはずだ。あれはボールにほんのわずかだが前進回転がかかっているからに他ならない。

そんな楽しいシーンに居合わせた卓球経験者に対して初心者は、「変化球はなしで頼むね!」などと言うのだ。
しかし経験者からすると、「変化球なし」と言われると困ってしまう。なぜならボールには絶対に回転がかかるし、そうでなくとも、「無回転(ナックル)」がかかっているという考え方をするからである。

とにかく卓球には「回転」という要素がつきものなのである。いかに回転をかけて、自分が得点をするか。あるいは相手に強いボールを打たせないか。そういったことを常に意識しておこなうのが卓球というスポーツだ。そしてその「回転をかけるまず第一歩がサーブであり、最も基本的な回転が「下回転」のサーブだ。

下回転とはすなわちバックスピンのこと。バックスピンがかかったボールを普通に打とうとすると、ボールは前に飛ばずに下に落ちて、ネットにかかってミスとなってしまう。

それに対して、きっちりネットを超えるように打つ技術が、「ツッツキ」と呼ばれるものだ。

「ツッツキの打ち方」

ではいよいよ、ツッツキの具体的な打ち方についてお話しする。今回はフォアハンドより簡単で、使用する機会の多いバックハンドのツッツキについて、3ステップでお話しする。

1.相手の下回転のボールに対して、体の中心にボールが来るように動き、右足(もしくは左足)を一歩踏み込む。

2.肘を軽く曲げ、ラケットの角度を斜め30度~45度くらいにして(このときシェークハンドなら手首を体の外側にやや曲げる)、体の正面で打球する。

3.そのままのラケット角度で、肘をほんの少しだけ伸ばし、相手コートにふわりとボールを送るように返球する。

言葉で説明するのは簡単だが、まずは実際にやってみると以外と難しいことが分かる。

注意したいのが、ツッツキを打つ時に力を入れてはいけないことだ。よく初心者の方で、「切る」ようなスイングで力いっぱいラケット振っているのを見かけることがあるが、それではいけない。

ツッツキでは必ずリラックスした状態で、決して力を入れずに返球したい。その際、「打つ」という意識ではなくて、「ラケットにボールを乗せて、相手コートに運ぶ」というような意識をすると、うまく返ってくれるだろう。

「オススメの練習法」

先ほども少し述べたが、初心者の方でツッツキがうまく出来ていない方によくあるダメなポイントが2つある。

良くない例1.ツッツキをする以前に、しっかりと動けていない。

ツッツキであれ何であれ、まずは足だ。ちゃんと動けていない選手が、へっぴり腰になりながら腕が伸び切った状態でツッツキをして、浮いたチャンスボールを送っている様を見かけることがよくある。

たとえばゴルフのボールを打つときを想像して欲しい。ゴルフのボールは止まっている。そのボールの位置に合わせて、自分が一番打ちやすいポイントにボールがあるように動いて調節するはずだ。卓球の場合も同じだ。ただひとつ違うのは、ボールが動いているということである。そして当然ながら、ボールは自分の打ちやすい位置に来てはくれない。しっかりと自分がボールの着地点を見極めて、そこに足を動かして準備をすることがまず大切だ。

対処法1.まずはラケットを持たずに、ボールの着地点まで動く練習

そこでまずオススメしたいのが、ラケットを使わない練習だ。練習相手に下回転のボールを送ってもらい、ボールのバウンドするポイントを予想し、足を動かす。そして手はラケットの形を真似て、素手で返すようにしてみよう。もちろんちゃんと返球できなくてかまわない。

大事なのは何度も言うように、足を動かして、正面で打球出来るように体をボールの位置に運ぶことだ。このとき、必ず右足を出してから打つことを心掛けよう。「イチ、ニ」という感じで、「足、手」という順番を大事にしたい。足と手が同時になるといいボールを打つことは難しい。

そしてしっかり動くことが出来たら、出来るだけボールに顔を近づけるようにして打ってみよう。顔を近づけようと思えば自然と前傾姿勢になり、しっかりと安定したボールが打てるようになる。さらに膝に適度な重心がかかる為、戻りも素早くすることが出来るのだ。

・ボールの着地点に動く
・足⇒手の順番
・打つ時は顔を近づける

この3つが気を付けるポイントだ。

よくない例2.ラケットを振り過ぎ

前述した、「切る」ようなスイングで力いっぱいラケット振っている選手。「下回転をしっかりとかけて返球したい」という意思があるのかもしれないが、初心者のうちはそこまでは必要ない。しっかりと確実に、低く返せるようになることが最優先である。

そもそもそんなにラケットを振らなくても、ラケットとラバーの「弾む力」によって、ボールは前に進んでくれるのだ。それをいかに下回転に負けずに、適切な角度で低く返せるかというだけの話である。しかし初心者はどうしても力が入って、強く振ってしまう。

対処法2.マジックテープでくっつくおもちゃを使う

誰しもが子供のころに一度は遊んだことがある、マジックテープでボールとラケットがひっつくおもちゃ。これを練習に用いてみるというアイデアもある。

これを卓球のラケットに見立てて持ち、ボールを送ってもらってツッツキをしてみる。ペタっとくっつけつつ、付いたボールを相手コートに運びいれるような意識でスイングをしてみよう。

初心者の方がやりがちなのが、肘を伸ばきって、切るようにスイングしてしまうこと。確かに熟練者になればこのようなスイングで自ら回転をかけるのは必要になるのだが、もう少し後のステップでもよい。まずは低くしっかりとボールを返すことだ。その為には、適切なラケット角度を作って、肘は伸び切らないようにし、押し出すようなイメージで打つことをオススメする。「切る」スイングだと、どうしても安定しないのだ。

図:若槻軸足(卓球ライター)

なので、まずは画像のように、ラケット角度をしっかり作って、相手コートに運ぶイメージで打球することから始めよう。そしてその感覚をつかむための練習として、マジックテープのおもちゃを使ってみるのをオススメする。おそらく、切るスイングをしてしまうとまく「ペタっ」とひっつかないはずだ。

まとめ

初心者がまず覚えるべき、最も基本的かつ最も重要な技術である「ツッツキ」について考えてみた。今回はシンプルな下回転に対しての、バックハンドのツッツキについてお伝えした。しかし実際の試合のなかでのボールはもっと複雑だし、その複雑なボールに対して色々なツッツキのやり方がある。切ったり、ナックルで押し込んだり、横回転を入れたり、逆モーションで流したりと、「ツッツキ」はとても奥が深い技術である。

しかしまずは今回の基本のツッツキをしっかり身につけることから始めよう。これが習得出来れば、もう一歩踏み込んだツッツキを使った戦術についての記事を読んでみることもオススメしたい。

文:若槻軸足(卓球ライター)
写真:千葉格/アフロ

関連リンク

【頭で勝つ!卓球戦術】初心者でも勝てる!最初に習得すべき「たった2つの技」
【頭で勝つ!卓球戦術】時間がなくても強くなれる!練習時間以外の活用法
【頭で勝つ!卓球戦術】戦型別攻略法!~対シェークフォア表編~
【頭で勝つ!卓球戦術】戦型別攻略法!~対カットマン基本戦術編~
【頭で勝つ!卓球戦術】戦型別攻略法!~対ペン表ソフト編~

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映画「北斎漫画」    1981

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北斎漫画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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Manga Hokusai.jpg

北斎漫画』(ほくさいまんが)は、葛飾北斎絵手本として発行したスケッチ画集である。海外では「ホクサイ・スケッチ」とも呼ばれる[1][2]

初編の序文によると、1812年秋頃、後援者で門人の牧墨僊(1775年 - 1824年)宅に半年ほど逗留し300余りの下絵を描いた。これをまとめ1814年(文化11年)、北斎55歳のとき、名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)から初編が発行され好評であった。その後1878年(明治11年)までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。北斎はこの絵のことを「気の向くままに漫然と描いた画」とよんだ。ただし、絵手本集という企画自体も北尾政美の『略画式』から着想を得ている。

この絵手本は国内で好評を博しただけでなく、1830年代ヨーロッパに磁器、陶器の輸出の際、緩衝材として浮世絵と共に偶然に渡り[要出典]フランス印象派の画家クロード・モネゴッホゴーギャンなどに影響を与えたとされる[2]

出典

[ヘルプ]
  1. ^ 北斎の生涯”. 北斎美術館. 2017年2月21日閲覧。

  1. ^ a b ゴマブックス『北斎漫画 風景・建築物・歴史編』「北斎漫画について」より

外部リンク






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映画「時代屋の女房」   1983

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ドラマ

2006年2月14日の21:00 - 22:54に日本テレビ系の『ドラマコンプレックス』で放送。

キャスト

スタッフ


日本テレビ DRAMA COMPLEX2006年2月14日
前番組 番組名 次番組
時代屋の女房

脚注

  1. ^ 「1983年邦画4社<封切配収ベスト作品>」、『キネマ旬報1984年昭和59年)2月下旬号、キネマ旬報社1984年、 116頁。

外部リンク

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映画「ちはやふる-下の句-」   2016

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解説

競技かるたを題材にした末次由紀の人気コミックを、『海街diary』などの広瀬すず主演で実写映画化した『ちはやふる』2部作の後編。競技かるたに情熱を注ぎ全国大会を目指す高校生たちの物語を、前作同様『タイヨウのうた』などの小泉徳宏監督が描く。ヒロインの幼なじみを野村周平と真剣佑が演じるほか、上白石萌音、矢本悠馬、森永悠希、清水尋也らが共演。クイーンとしてヒロインの前に立ちはだかるライバルに松岡茉優がふんし、広瀬と真っ向勝負を繰り広げる。

シネマトゥデイ (外部リンク)

あらすじ

高校で再会した幼なじみの太一(野村周平)と一緒に競技かるた部を作った千早(広瀬すず)は、創部1年にして東京都大会優勝を果たす。自分をかるたに導いてくれた新(真剣佑)に優勝報告をした際、新の衝撃的な告白に動揺する千早だったが、全国大会のために仲間たちと練習に打ちこむ。そんな折、千早は同い年で日本一となった若宮詩暢(松岡茉優)のことを知り……。

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家庭バレーボールのルール

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家庭バレーボールのルール

 家庭バレーボールは、老若男女を問わず、誰でも気軽にできるスポーツです。
 ルールは、ほぼ6人制のバレーボールと同様ですが多少異なる部分もあります。
 ここでは、主なルールについてご紹介します。

1 コート・ネット
   コートの広さは、サイドラインは片面について6m、エンドライン8m、ネットと
  エンドラインの中間(3m)にハーフラインを設ける。ネットの高さは2m20cmを
  基本とする。

2 ボール
   ビニール競技には白色均一のビニールボールを使用する。

3 チーム
   競技者の数はいかなる事情があっても8名とし、交代競技者を含めて11名
  以内とする。チームの編成は競技委員会が定める。

4 競技者交代
   セット内のメンバーチェンジは3人までできる。ただし、一度交代した競技者
  はそのセット内は再び復帰できない。復帰する場合は番号順の位置は常に守
  らなければならない。
   セット間のメンバーチェンジは、メンバーチェンジの回数に含めない。

5 競技方法
   サービスの時はハーフラインを挟んで前衛4人、後衛4人の位置を守らなけ
  ればならない。サービスの直後、各競技者は自分のコート内外を自由に行動
  することができる。

6 サービス
   ビニールボールの場合は、サービスを行い、一度味方のチームに触れた後
  プレーをしなければならない。(サービスが直接ネットに触れた場合はアウト。)
   サービス開始の吹笛後、ボールを支持手から離した場合はサービスを行った
  ものと見なす。

7 プレー
   各チームはネットを境に分かれ、ボールを落とさないようにネットを越して打
  ち合い、ボールを3回以内に相手方に返す。 ただし、ネットに触れたボールは
  4回以内とする。
    同一人が続けて2度ボールに触れてはならない。ただし、ボールがネットに触
  れた場合はもう一度ボールに触れることができる。

8 タッチネット
  インプレー中、競技者がネット(支柱を除く)に触れるとタッチネットの反則にな
  る。しかし、ボールが打ち込まれたために相手チームの競技者にネットが触れ
  ても反則とはならない。

                             …以上、簡単にご説明しました。

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映画「Wの悲劇」   1984

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2度眼。




Wの悲劇』(ダブリューのひげき)は、1984年12月15日に公開された日本青春映画。監督は澤井信一郎薬師丸ひろ子主演。カラー・108分。併映は原田知世主演の『天国にいちばん近い島』。15億5000万円の配給収入は1985年の邦画で4位となった[1]

夏樹静子の小説『Wの悲劇』が原作とクレジットされているが、小説は本映画中で上演される舞台劇の原作という形になっており、ストーリーはその舞台を演じる女優の成長と恋を描いた青春映画である。

作品および監督の澤井、主演の薬師丸、助演の三田はこの作品で数々の賞を受賞し、特に、薬師丸ひろ子がアイドルから大人の女優に成長した映画としても有名である[2]。また、薬師丸による主題歌もオリコンチャート月間1位を記録するヒット作となった。

作品解説

原作の小説とは設定が違い、舞台女優を志望する女性が劇団のスキャンダルに巻き込まれ、それをチャンスと逆手に取り成り上がっていくストーリー。原作小説のメインストーリーは映画内の劇団が公演している舞台のストーリー(劇中劇)となっており、映画内に原作ストーリーをそのまま内包した形で展開している。こういう構成になったのは、澤井信一郎に監督の依頼する前に、ミステリーの謎解きの説明が映画的でないという理由で既に何人かの監督に断られていて、澤井は原作を劇中劇にして、劇団の研究生の青春映画にすることを条件に引き受けたため[3]。『麻雀放浪記』のシナリオを手伝ったことで縁のあった和田誠からの「謎解きミステリに名画はない」との言葉も後押しした[4][5]。また、劇団という設定について監督の澤井は、スターである薬師丸にオーディションで落ちるという役を与えることで人生経験を積ませたかったと述べている[6]。別説として、黒澤満プロデューサーによれば、原作は冬の山荘の話なのに撮影が夏になるため映画の設定を変更し、角川春樹が原作者の夏樹静子を説得したと話している[7]

劇中劇の外枠部分のストーリーはアーウィン・ショーの短編小説『憂いを含んで、ほのかに甘く』を参考にしていて[8]、それを翻訳者常盤新平が盗作呼ばわりするなど議論が起こった。これに対し、小林信彦キネマ旬報で「ヒントを得ることは盗作ではない。これを盗作とすれば、日本映画の大家の名作、現代日本文学の代表作の幾つかが、盗作になってしまう。」と援護するコラムを書いた[9]。また、映画評論家の蓮實重彦や脚本家の野上龍雄も擁護した[10]。結局、訴訟には至らず、毎日新聞も盗作でないと判断し、毎日映画コンクール脚本賞受賞の運びとなった[11]。澤井監督は、この騒動で角川や原作者の夏樹静子に迷惑をかけ申し訳なかったとインタビューで答えている[11]

劇団の演出家役で蜷川幸雄が出演し、実際に劇中劇の演出も担当している。また、当時テレビで活躍していた芸能レポーター梨元勝福岡翼須藤甚一郎、藤田恵子が、静香のスキャンダルと舞台『Wの悲劇』の突然の主役交代を追及するレポーター役で出演している。名優藤原釜足の最後の出演映画でもある[12]

ストーリー

三田静香(薬師丸ひろ子)は劇団「海」の研究生で、女優になるために努力を重ねる20歳の女性。そんな真摯な静香を公園で見初めた森口(世良公則)は元劇団員の26歳、今は不動産屋の社員をしている。

静香は劇団の次回公演『Wの悲劇』の主役選考オーディションに臨むが、同期のかおり(高木美保)が役を射止め、静香は物語の冒頭でひとことだけ台詞のある端役(兼プロンプター)を担当することになった。オーディションに落ちて落ち込む静香に、森口は俳優時代の心理的な苦悩を語る。そして、森口は、静香がスターになれなかったらという条件で結婚を申し込み、反対に静香が役者として成功した場合はサヨナラの意味も込めて楽屋に大きな花束を贈ることを約束する。

そんな静香に、危険な第2のチャンスが待っていた。『Wの悲劇』公演のため大阪に滞在中、看板女優である羽鳥翔(三田佳子)のホテルの部屋で、羽鳥のパトロンの堂原(仲谷昇)が腹上死してしまったのだ。スキャンダルになることを恐れた羽鳥は、たまたま部屋の前を通った静香を呼び寄せ、身代わりになることを頼む。その見返りとして、続く東京公演でかおりを降板させ、静香を主役へ起用させることを約束する。舞台への情熱が勝った静香はその申し出を承諾し、羽鳥の代わりにスキャンダルの当事者としてマスコミの矢面に立つ。

そして、静香にとって初めての大舞台となる、東京公演の幕が上がる。羽鳥の後押しもあって、静香はステージの上で全身全霊で役柄を演じきり、観客や団員達の賞賛と祝福を受ける。しかし栄光もつかの間、新しいスターを取材しようと集まった報道陣の前に真相を知ったかおりが現れ、事の全てを暴露、静香を刺殺しようとするが、森口が静香を庇って刺される。一夜の名声から再びスキャンダルの汚名をかぶった静香だが、同時に自分の道は舞台にしかないことを確信する。静香は女優として再起することを誓い、森口に別れを告げる。そんな静香の去り際を、森口は拍手で見送る。

キャスト

:役名に続くカッコは劇中劇『Wの悲劇』での役柄を示す。

三田静香(女中→和辻摩子)
演 - 薬師丸ひろ子
劇団「海」の研究生。20歳。次回公演『Wの悲劇』のオーディションに落ち、舞台の冒頭で「失礼します」の一言だけの端役(女中役)になる。及びプロンプと楽屋当番も兼任する。大阪公演の滞在先のホテルで翔の部屋で堂原が亡くなった直後に、偶然そばを通りかかったことから役者人生が大きく変わっていく。
日々ダンスや芝居の稽古に忙しい生活を送る。見栄っ張りで、田舎出身(シナリオ上は青森出身)なのに昭夫に出会った当初「東京出身」と言っていた。処女であり、研究生たちの間では有名で「(処女の設定である摩子役について)処女役だから静香にピッタリ」と言われている。ただし、実際には本作の冒頭で初体験済み。昭夫からは「美人ではないがチャーミング」と評されている。
森口昭夫
演 - 世良公則
不動産屋。26歳。新潟県出身。野外舞台で劇のワンシーンを練習していた静香と偶然出会い、一目惚れして猛烈にアタックする。好青年で優しく無邪気な性格で、花束をプレゼントしたり相談に乗るなど静香を見守っている。しかし時々静香にとっては少々お節介な言動に映ってしまうことから、つかず離れずの関係となっている。
趣味は演劇で、過去に役者を目指していた。しかし演劇仲間が亡くなり悲しんでいた所、もう一人の自分が現れた。自分自身に演技の指導を受けるような感覚に陥り、まるで嘘泣きのようになってしまった。それ以来プライベートで素直な感情が出せなくなったため役者の夢を諦めたと語っている。
羽鳥翔(和辻淑枝。摩子の母親で与兵衛の姪)
演 - 三田佳子
劇団の大女優で、看板女優。劇中劇『Wの悲劇』のもう一人の主役を演じている。大物女優であるが楽屋当番の静香にも気取らずに接するが、役者として芝居には厳しい性格。同時にしたたかな性格で看板女優として自身の保身のために、表現力・演技力を使ってスキャンダルを揉み消そうとする。
堂原とは20代の頃に彼の子供を降ろしたり、30歳の頃にプロポーズされたが芝居に夢中で断った過去がある。その後も長年に渡って、親密な交際を続けてきた。

劇中劇に参加する人たち

五代淳(中里右京。和辻家の事件を捜査する警部)
演 - 三田村邦彦
劇団の俳優。独身。静香の初体験の相手。
劇中劇では、摩子に疑いを持って、彼女をかばおうとする和辻家から推理によって真実を暴き出そうとする。
嶺田秀夫(和辻道彦。淑枝の二人目の夫で摩子の義理の父親)
演 - 清水紘治
劇団の俳優。スキャンダルにより静香の降板騒動が起きた時に降ろす派・降ろさない派に別れる中、唯一「多数決で決めりゃいいんじゃないの」という意見に留めた。
劇中劇では、殺人の容疑がかかった摩子の無罪を信じて、取り乱す淑枝を励ます。
安恵千恵子(和辻みね。与兵衛の妻)
演 - 南美江
劇団のベテラン女優で翔の先輩。愛称は「やすえさん」。
君子のオーディション時の流産騒動や静香(実際には翔)のパトロン・堂原の腹上死など、若い研究生の性の乱れや貞操観念を憂えている(が、翔からは「若い頃芝居の稽古でアルバイトもできずお金がない時、女を使って生活しなかった?」との問いには何も言い返せなかった)。
劇中劇では、容疑のかかった摩子を警察に引き渡さないようにすべきだと意見する。
城田公二(間崎鐘平。会長の主治医)
演 - 西田健
劇団の俳優。
立ち稽古ではセリフの間を取りすぎたため、演出家から叱られていた。
劇中劇では、犯人とされる摩子に容疑がかからないように与兵衛の死亡推定時刻を遅らせることを和辻家に提案する。
小谷光枝(一条春生。摩子の家庭教師)
演 - 香野百合子
劇団の女優。
劇中劇では、家庭教師ながら事件に対し一つの推理を導き出す。
佐島重吉(和辻与兵衛。和辻製薬会長。通称「おじい様」)
演 - 日野道夫
劇団の俳優。
劇中劇の殺人の被害者。何者かによって自室で刺殺される。
木内嘉一(和辻繁。与兵衛の弟)
演 - 草薙幸二郎
劇団の俳優。
水原健(和辻卓夫)
演 - 堀越大史
劇団の俳優。
林年子(女中頭)
演 - 野中マリ子
劇団の女優。

その他劇団に関わる人達

菊地かおり(和辻摩子→途中降板)
演 - 高木美保
劇団研究生。静香のライバル。オーディションで次回公演『Wの悲劇』の主役の和辻摩子役に抜擢される。
将来は有名な女優になるべく人一倍芝居に情熱を燃やし、常に自信に満ち溢れた表情で稽古に挑む。かなりの野心家で、看板女優である翔に対しても「いつか追い抜いてやるわ」という気持ちを内に秘める。
宮下君子
演 - 志方亜紀子
劇団の研究生仲間。研究生たちの間では「(摩子役は事実上)かおり、君子、静香の闘いだね」と言われており、仲間の中でも特に評価されている3人の内の1人とされる。かおりに対するライバル心が強い。実は妊娠中であるにも関わらず、オーディションを受けてしまい流産騒動を起こしてしまう。
劇団の主催者
演 - 内田稔
劇中劇『Wの悲劇』の主催者。劇団内の様々な事のまとめ役や静香の会見に同席して事前にアドバイスをした。
安部幸雄
演 - 蜷川幸雄
劇団の演出家。芝居に対して熱い性格で、怒ると台本を役者に投げつける。

その他の人々

堂原良造
演 - 仲谷昇
作中では有名な東宝デパート社長。妻子がある。羽鳥翔のパトロン。『Wの悲劇』の大阪公演期間中の翔の滞在先のホテルの部屋で腹上死した。以前から心臓が弱く、翔も気をつけてはいたとのこと。後の警察の調べで彼の死は自然死として処理された。
翔が20歳ぐらいの頃、芝居のチケットを買ったことがきっかけでパトロン関係となる。翔をブロードウェイに連れて行ったり、演技で新人賞を受賞した時に車のMGをプレゼントするなどした。
レポーター
演 - 梨元勝福岡翼須藤甚一郎、藤田恵子
妻子ある堂原がパトロン相手の女優の前で腹上死したというスキャンダルについて、会見で辛辣な質問を浴びせる。
将棋をさす老人
演 - 藤原釜足
その他
演 - 絵沢萌子団巌塚田聖見寺杣昌紀岸加奈子日下由美 ほか

スタッフ

主題歌

ロケ地

企画・製作準備

劇中劇

澤井信一郎監督には、原作の『Wの悲劇』の和辻摩子を撮りたいのではなく、20歳の薬師丸ひろ子の人生を切り取りたいとの思いがあり[21][注 2]、それには原作通りに映画化するよりも演劇志望の子が劇中劇で和辻摩子を演じるオリジナル脚本が相応しいと判断した[21]。原作通りでは雪に閉じ込められた別荘という1つのセットしかない映画となるので何人もの監督に断られていた、そのため角川春樹事務所は原作のタイトルと主人公の名前さえ使ってくれれば、どう脚色しても良いというくらいに監督探しに困っていたという背景もあった[23]

謎解き・トリックが優先される原作と感じた助監督の藤沢勇夫は、真犯人である夫の容疑を妻がかぶり、さらに母親思いの娘が身代わりとなるというのは、封建時代ならともかく現代人がする行動だろうかと疑問を持った[24][注 3]。原作者の夏樹静子自身、実の娘を犠牲にするくらいなら旦那に「あなた捕まりなさい。」と言うだろうと話している[25]

劇中劇は何でも良いのではなく、少女(和辻摩子)が演劇部の所属し、「身代わりの話」である『Wの悲劇』である必要があった[26]。映画オリジナル・ストーリー部分は、劇中劇が『Wの悲劇』であるがゆえに生み出された[26]

澤井によれば、夏樹静子は原作に沿った風でも原作の味が出ていないドラマよりも、今回のような部分的な劇中劇であっても原作の味を出してもらった方が嬉しいと話していた[26]

原作通りに映画化した場合の主役は誰になるか、東京に逃がされて出番が少なくなるので摩子を主役にするのは難しい、探偵役の一条春生も当事者ではなく感情の起伏がないので除外され、映画として成立するのは母親の淑枝を主役にすることではないかと澤井監督は述べている[27][注 4]。しかし、それでは薬師丸ひろ子主演映画では無理になる[28]

シナリオ

3か月と少し掛かり完成したシナリオの7割は荒井晴彦、残りの3割を澤井が担当した[29]。青春映画部分を荒井が、舞台関係のシーンを澤井が書いている[11]。「そんな時、オンナ使いませんでした!?」は荒井の考えたセリフ[30]

荒井と澤井は劇団雲劇団四季俳優座などの18歳から20歳の研究生を取材した[31]。取材の中で、色気のない女優が、好きだった先輩と寝ることで色気がでると思ったが変化なくがっかりした話は、静香の色気に乏しいキャラクター設定とシナリオに取り入れられた[31]。記者会見で静香が話すエピソードの芝居のチケットを売るためにデパートなどのお金のありそうな所に飛び込みで行く話も取材に基づいている[15]

シナリオ作りのために見た映画は『女優志願』[32]・『イヴの総て』・『赤い靴』・『グリニッチ・ビレッジの青春[注 5]、舞台撮影の参考のために『ジョルスン物語[33]

病室で「産んで悪い性格直してやんなくちゃ」と言う宮下君子(志方亜紀子)は70年代全共闘的女性のイメージで、60年世代の自分には書けない70年世代の荒井による優れた人物造形だったと澤井は褒めている[34]

居酒屋で昭夫が友人の話だとして話す「ここはもっと泣いた方がいい」の元ネタは『加藤健一の俳優のすすめ』(1984年、劇書房)[35]。『麻雀放浪記』に出演中の加藤から許可をもらい使用した[35]

ラストシーンは、最初、静香と昭夫の2人が結ばれるハッピーエンドだったが、角川側から結婚させないでくれと注文がつき、現在のような2人別々の道を行くというものになった[23]。2人が別れるラストは浦山桐郎の『非行少女』[36]の互いに別々に生きていこうと駅の待合室で長々と話すシーンをイメージしたと荒井は話している[37]

映画を見た澤井監督の師匠ともいえるマキノ雅弘は、これまでの映画なら〔記者会見などで〕恥ずかしい思いをした甲斐もあって、静香が舞台で成功して良かったで終わりだった、菊地かおり(高木美保)に真相をバラされるとか、最後に2人が別れるようなエンディングを許す角川映画の自由さを羨ましいと言った[38]

和田誠によれば、これまでは時代劇ですら自分自身に非常に近い役を演じてきた薬師丸にとって、職業的には舞台女優と近いが、自分とは全く違う女性を演じる厳しいシナリオとなっている[4]

キャスティング

劇団の大女優である羽鳥翔役には悪役的要素があるので他の女優には断られていたが、その事を黙ったまま、最初に三田佳子に声をかけたことにしてオファーしたが、三田は「本当? 私が出るなら、ひろ子ちゃんの役名を三田にはしないわよねっ」と見抜いた[39]。また、死体のパトロン役に関しては三田が実際に抱ける、三田好みの配役にして欲しいとの注文から仲谷昇になった[40]

テレビドラマ『25才たち・危うい予感』[41]での世良公則の演技を見て森口昭夫役をお願いした[12]。この役も最初は他の俳優にオファーしていたが断られ、世良は、そのことを聞いて知っていたが出演を了承した[12]

写真選考で1、2歳の年齢制限のために落選にしたが、たまたま、その書類を見た澤井監督が気の強そうな写真を気に入り、実際に会ってみると口跡〔声色・言い回し〕が良いので合格にしたのが、新人の高木美保だった[42]

音楽

5人の音楽候補のデモテープを聴き、1本の映画経験しかない新人の久石譲(デモテープは『風の谷のナウシカ』の劇伴)を採用した[33]。この映画の後、澤井監督は5作品で久石に音楽を依頼することになる[33]

舞台のストーリーのクライマックスで、当時はまだ一般によく知られていなかったエリック・サティの「ジムノペディ第1番」が使用された。「私、おじいさまを殺してしまった。刺し殺してしまった!」と静香が絶叫するシーンで突如流れる曲は、ジュゼッペ・ヴェルディの「レクイエム」より「ディエス・イレ(怒りの日)」が使用されている。

当初、澤井監督は主題歌の「Woman "Wの悲劇"より」は映画のリズムに合わないとの理由で、映画内で使用することに拒絶反応を示していた[43]。しかし、試写会で主題歌の流れる映画のエンディングになると客席は号泣の嵐となった[43]。監督のイメージする主題歌とは違うものではあったが、映画に非常に合っていたと当時東映の宣伝担当だった遠藤茂之は語っている[43]

製作

全般

1984年7月22日クランクイン、9月22日クランクアップ。撮影実働日数35日。撮影総カット数約385カット[44]。撮影は順調で、日曜日は休み、残業もほとんどなかったと薬師丸ひろ子はインタビューに答えている[45]

オーディション

澤井監督の演技指導は詳細(歩き方・歩くスピード、鞄の持ち方・置き方、水の飲み方など)で[46]、かつ、懇切丁寧でわかりやすく[47]、役者に演技の意味を伝え、役のイメージを喚起していたと助監督は書いている[48]。時には、監督自らが演技して指導した[45]。監督が女性のしぐさをすると女性である薬師丸も感心した[45]。がに股で坂道を歩くシーンやカレンダーにマーク(安全日)するシーンの意味を澤井監督は薬師丸に説明した[49][注 6]2003年の対談では、若い役者がセリフ回しとか感情を作るのは難しいので、監督である自分の言う通りに演技させると答えている[51]

森口昭夫との出会いとなる野外舞台のシーンで、三田静香はアントン・チェーホフ作『かもめ』のニーナのセリフを練習している。ニーナは名声を夢見る女優志望の登場人物。

初体験後、自宅に戻った三田静香がマークを付けるカレンダーは、和田誠作の「スクリーン・グラフィティー」。5月6月が『キューポラのある街』の吉永小百合浜田光夫、マークを付けた7月8月は『カルメン故郷に帰る』の高峰秀子小林トシ子。監督の薬師丸への期待が込められている[52]

宮下君子が妊娠を静香に告白する駅のプラットフォームのシーンでは、終電後、電車を貸し切りにして5 - 6回走らせた[34]。前の駅を出発して1分前後で到着するので、ワンカットで2人が電車に乗れるようにセリフを削除した[34]

オーディションに落ちた三田静香が森口昭夫を花束でぶつシーンについて、最初は花を貰って嬉しいが、オーディションに落ちた絶望や惨めさ、やり場のない怒り、それが昭夫に対する甘えに変わり、そして抑えきれない激情がおそってくると演技指導した[53]。甘えていることが分かると静香の乱暴な振る舞いが許せ、無念の気持ちが伝わる演出だったと助監督は書いている[54]

澤井監督は、居酒屋のワンシーンワンカットでの薬師丸の演技が一番好きだと言っている[55][56]。嘘泣きの演技をさせることで、三田静香ではなく薬師丸の地を出すことを意図していた[57]。2本のOKテイクの中、スタッフ全員が世良公則の演技が良かった方を推したが、澤井監督は薬師丸の良かった方を採用した[58]。薬師丸の受けの演技が良かった方を採用しなかったら、薬師丸という女優が育たないと監督は説明した[59]

撮影中、しぐさをめぐって、薬師丸が澤井監督に抵抗することもあった[45]。指で歯を磨くシーンに関しては、日常的ではなく女の子は絶対にしないと薬師丸は抵抗したが[59][注 7]、監督に「君が演じれば嫌に見えない」と言われ、騙されていると思いながら従った[45][59]

舞台

大阪公演のシーンはエキストラに薬師丸ファン1300人を集めて行われた[59][注 8]。東京公演は1500人[18][注 9]。舞台演出家の蜷川幸雄、舞台美術に妹尾河童、照明に原田保が集結[61]。澤井監督は舞台の演出を既に5回経験していたので舞台の演出も担当した[18]。蜷川は劇中劇に音楽をつけることと照明デザインを担当し娯楽的な舞台に仕上げた[62]。舞台をトータルに監修することや舞台経験のない薬師丸に舞台上での所作も教えた[63]

終演後の誰もいない客席に向かって「ウッ」と無念の気持ちが込み上げてくる演技で薬師丸が戸惑っていると、澤井監督は杉村春子を例に出し指導した[59]。OKを出したが、春まではいかず杉村冬子と澤井監督は評価した[64]

澤井監督の前作『野菊の墓』を見た三田佳子が、なぜ樹木希林アップ・ショットは撮るのに私のアップは撮らないのかと質問すると、澤井監督は空気感が伝わらないアップは嫌いで、アップにこだわるのは古いと返答した[65]。『Wの悲劇』の中で人物のアップ・ショットは、薬師丸1回、三田2回、死体役の仲谷1回[66]

三田佳子の演技は女優然としていて素晴らしかったと助監督は記述している[64]。静香をスキャンダルの身代わりにするシーンでの歩き回る演技に関して澤井監督と三田は意見が食い違った[66]。三田演じる羽鳥翔は動転していて動けないと思うと意見する三田に対し、澤井監督はアクシデントから既に30分は経過し、現場を見た研究生に協力させて苦境を切り抜けたいが、その方法が見いだせずイライラしているので部屋を歩き回ると説得した[67]

劇団関係者の前で静香をかばうシーンで、三田は気持ちの上からも動きを付けた演技は無理と意見した[30]。澤井監督は三田の意見も聞き入れ、先に監督提案の動きを付けた演技、次に三田提案の動きのない演技で撮影することにした[30]。羽鳥翔は持論を展開する時に思わず動きが入る、それは女優の業で一世一代の大嘘をついているのに関わらず、〔いつの間にか〕自分が主役の芝居と勘違いして演技する快感に酔っていると澤井監督は演技を説明した[30]。結局、三田も納得し三田案は撮影されなかった[30]

シナリオには存在した警察の取り調べのシーンは撮影もせずにカットされた[26]。三田静香が噓をつき通す試練が記者会見と警察の2回となり、〔シーンの持つ衝撃性が薄れ〕、また、静香に対する質問内容も記者会見と同じになるため[26]

記者会見のシーンでは薬師丸に伏し目にならないように芸能レポーターを直視するように指導した[34][注 10]。本物のレポーターを使うことによって、実際の追及の間合いや迫力が得られ〔追及される〕薬師丸も本気になり、ある種のドキュメンタリー要素が生じている[30]。薬師丸は局面、局面で綺麗というよりも目が爛々としている、目に力がある女優と監督は評している[30]。澤井によれば、薬師丸が噓の人生を選択した静香を演じると、健気に見えて非難する気になれず、これは彼女の良さだ[68]

クライマックス

和辻摩子役を菊地かおりから奪い成功した静香が、新たな楽屋係に「私の衣装も持ってって」とクリーニングを頼むシーンも撮影されずにカットとなった[56][注 11]

刃物を持った菊地かおりが静香に突進し昭夫が身代わりに刺されるシーンの俯瞰ショットには2つの理由がある[69]。1つ目は一連のアクション・シーンは男優でも難しいのに、ましてアクションに不慣れな若い女優がやる嘘臭さが真俯瞰ならごまかせるから[69]。より重要な2つ目の理由は地上で3人が収まるロングの画を撮ろうとすると出待ちのファンやテレビのレポーターが入ってしまうが、真俯瞰なら3人以外を入れないで撮れるから[60]。ただし、妹尾河童は俯瞰ショットは絵に凝りすぎていると澤井に感想を述べている[56][注 12]

世良演じる昭夫が刺された後、昭夫のセリフが終わるまで駆け寄らずに黙って見ているように澤井監督は指示するが、薬師丸は自分の身代わりで傷ついた昭夫にすぐ駆け寄りたいと意見した[62]。それに対し、澤井監督は、昭夫にとって一世一代の別れの大芝居を演じていて、そんな男のロマンチシズムを静香も理解しているからこそ駆け寄らないで見守っていると説明[70]。傷ついた昭夫が運ばれ、静香が報道陣のフラッシュを浴びるシーンでは〔地の〕薬師丸自身で反応することと笑顔と涙を要求した[71]。帰りのロケバスの中で、澤井監督はVサインを出すしぐさも追加すれば良かったと後悔した[71][注 13]

誰が菊地かおりに真相を伝えたのか、澤井監督からの正式解答はない[72][注 14]。理由は、誰が犯人で、動機は何かを説明しようとすると、映画が5〜10分は長くなってしまうから[72]。同様に、スキャンダルが新聞に出て、青森から母親が静香を訪ねてくるシーンもカットされた[72]

ラストシーン

静香がアパートを退去する時に天井に貼ったままの舞台のポスターに気付き、飛びついて剥がそうとするシーンがあるが、このセットの天井は美術によって通常より高く作られた[69]

ラストカットのお辞儀のシーンは、澤井監督の泣き加減について求めるものが厳しかったため、なかなかOKが出なかった[43]。薬師丸は演技で泣けないことが辛くなり、〔その泣けない自身に対して〕泣けたと当時を振り返っている[73]

封切り

1984年12月15日に東映洋画系で全国一斉ロードショー公開された。興行成績は15億5000万円の配給収入を記録し、これは1985年の邦画で第4位になった[74]

座る席もない大ヒットだったこと以上に、新宿武蔵野館で実施した映画満足度調査の結果が新記録の99.8パーセントと高評価になったことの方が嬉しかったと澤井監督は記憶している[75]

弟子の映画なので、マキノ雅弘はあまり悪口は言わず、ところどころ褒めてくれた[68]。マキノによれば、薬師丸は長続きする女優だとのこと[68]

作品の評価

受賞歴

ブルーリボン賞

澤井監督は、薬師丸はアイドルというレッテルを貼られ、子役の演技として不当に評価されているので、この映画で主演女優賞を獲らせたいと映画公開前に行われた原作者の夏樹静子との対談で抱負を語っていた[77]

三田佳子との対談で、薬師丸は「この映画を自分で見て、ますます役者に向いてないと思った。」と打ち明けると、三田は薬師丸が今後も女優を継続すると思うし、この映画で立派な女優になったと励ました[78]

ブルーリボン主演女優賞の表彰式で[79]、薬師丸は「この映画で燃えつきたので、(女優を)やめようと思った。でも、この賞は私にガンバレという励ましの意味でいただけたと思います」とスピーチした[80]

映画の中で薬師丸演じる研究生は女優を続けるか決断を迫られるが、薬師丸自身も女優を続けるか悩んでいたことを考えると、ここでも虚構と現実が二重写しになっていた[81]

シーン・セリフ

三田静香のセリフ「顔ぶたないで!私、女優なんだから!」は当時流行し[82]、お笑いのショートコントなどでよく使われた。

映画評論家・イラストレーターの三留まゆみはラストのカーテンコールを一番素敵なシーンとし、「あの表情はどんな女優にもできない、間違いなく、1本の映画をやりとげた20歳の生身の女の子が出ている。」と賞賛している[82]

テレビ情報誌テレビブロス2012年5月26日号の特集「声に出して読みたい映画版"Wの悲劇"」では、下記のセリフを取り上げた。

  • 「あぁーっ、ただの女になっちゃう…」
  • 「女優!、女優!、女優!」
  • 「安恵さん、劇団を維持していくため、好きな芝居を作っていくため、でもお金がない、アルバイトしていると稽古ができない、そんな時、オンナ使いませんでした!?あたしはしてきたわ!」
  • 「でも一度映画に行った時、ハンバーガーとジュース、私のお金で…あの人、とても喜んで…」

テレビ朝日系で2012年10月27日に放送された『マツコのDX音楽会』で、マツコ・デラックスいとうあさこが映画『Wの悲劇』の名シーンを選んだ。

  • いとうあさこが選んだのは「女優!、女優!、女優!」のシーン
  • マツコ・デラックスが選んだのは「ホラ見てよ、これ、指輪の跡、お母様、お母様って、そのたんびに、ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅう、上から握られたら、私、痛いわよ」のシーン

後の作品への影響

1998年に出版された佐々木譲の小説『ステージドアに踏み出せば』の中で、演劇志望の女性の登場人物が映画『Wの悲劇』は大学の演劇科では非公式の必見教材であったと回想し、彼女は友人から映画のもうひとつの原作として『憂いを含んで、ほのかに甘く』の本を渡される[83]。また、「商業演劇が大阪公演から始まること」、「大女優には付き人がいるはずであり、事件の処理は付き人に相談するはず」、「ゴシップ雑誌は、大女優とパトロンとの関係を知っていたはず」の3点が不自然と登場人物の口を借りて指摘している[84]

2009年宮藤官九郎脚本の舞台『印獣』での三田佳子の役は、映画『Wの悲劇』の"大女優"羽鳥翔から生まれた[85]

2013年連続テレビ小説あまちゃん』には、映画『Wの悲劇』との関連を噂されるシーンが幾つかあるが、脚本家の宮藤官九郎は"大女優"鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が付き人の天野アキ(能年玲奈)を叱る時の「領収書!領収書!領収書!」が、「女優!女優!女優!」へのオマージュであると述べている[86]。このシーンを澤井信一郎監督も見ていて、とてもうれしかったとインタビューに答えている[87]

2016年、三田佳子は『スニッカーズ』のCMに『Wの悲劇』〔の羽鳥翔〕を連想させる大女優のパロディで出演した[88]

備考

  • 『Wの悲劇』予告編には、本編でカットされた主役交代後の稽古のシーンが収録されている。また、同様にカットされたラストシーン「一人ぼっちのカーテンコール」も1カットだけ使用されている[89]
  • 薬師丸が初主演したドラマ『ミセスシンデレラ』(1997年フジテレビ)のプロデューサーで、薬師丸を18年ぶりにテレビドラマへ担ぎ出した小岩井宏悦は、この業界に入ったきっかけは映画『Wの悲劇』だったと話している[90]
  • 薬師丸は2011年フジテレビ系「とくダネ!」のインタビューで、役にのめり込み過ぎて役者を辞めたくなった映画に『Wの悲劇』を挙げた。薬師丸のVTRが終わるとコメンテーターを務めていた高木美保は〔薬師丸が〕『Wの悲劇』の現場で大変苦労していたのを覚えていますと話した[91]
  • 2012年沖縄国際映画祭でイベント「角川映画好き芸人 薬師丸ひろ子から学ぶ『Wの悲劇』」に薬師丸をゲストに招き、特別上映された[92]
  • 原作者の夏樹静子は、監督の澤井信一郎との(映画を見る前の)対談の中で、原作が劇中劇になったことに理解ある発言をしているが[93]、2012年の朝日新聞のインタビューでは原作が劇中劇になって唖然としたと述べている[94]
  • 2016年、角川映画40周年を記念した角川映画祭で『Wの悲劇』上映後には、澤井信一郎・三田佳子、ブルボンヌ・よしひろまさみちのトークショーが行われた[95][96]
  • 音楽評論家のスージー鈴木は、『セーラー服と機関銃』の頃の破格の可愛さはなく、垢抜けない普通の女の子に見えるシーンもあるのにもかかわらず、時折突然に、顔だけでなく、表情、動き、独特の声を含めた総力戦の魔法で説明不能の魅力を薬師丸が発散するように感じたと述べている[97]

関連商品

Blu-ray / DVD

  • Wの悲劇(DVD)(2001年6月22日、角川エンタテインメント、KABD-127)
  • 角川ヒロイン第三選集(3枚組 DVD-BOX)(2001年6月22日、角川エンタテインメント、KABD-130) - 『Wの悲劇』、『早春物語』、『いつか誰かが殺される』をセットにしたDVD-BOX。
  • Wの悲劇 デジタル・リマスター版(DVD)(2011年6月24日、角川映画、DABA-0809)
  • Wの悲劇 ブルーレイ(Blu-ray Disc)(2012年9月28日[98]、角川映画、DAXA-4265)
  • Wの悲劇 角川映画 THE BEST(DVD)(2016年1月29日[99]KADOKAWA、DABA-91125)

サウンドトラック

Wの悲劇 オリジナル・サウンドトラック
Various Artistsサウンドトラック
リリース
録音 1984年
ジャンル 映画音楽
時間
レーベル 東芝EMI
テンプレートを表示

音楽は久石譲が手がけた。サウンドトラックは1984年12月21日に東芝EMIより発売された。


トラックリスト
#タイトルVocal時間
1.「プロローグ」 
2.「野外ステージ」 
3.「冬のバラ」薬師丸ひろ子
4.「女優志願」 
5.「劇団「海」」 
6.「Wの悲劇」 
7.「Woman"Wの悲劇"より」薬師丸ひろ子
8.「危険な台詞」 
9.「静香と摩子」 
10.「ジムノペディ第1番〜レクイエム〜サンクトゥス〜カーテンコールI」 
11.「カーテンコールII」 
合計時間:

書籍

  • 『シナリオ Wの悲劇』(角川文庫 / 1984年11月25日発行 / ISBN 4-04-144599-X
  • 『Wの悲劇 カドカワフィルムストーリー』(角川文庫 / 1984年12月10日発行 / ISBN 4-04-159505-3
  • 荒井晴彦、岩槻步、土田環 『噓の色、本当の色: 脚本家荒井晴彦の仕事』 川崎市市民ミュージアム、2012年ISBN 978-4-9900-2062-0
    • 『Wの悲劇』脚本の初稿を含む。

脚注

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注釈

  1. ^ 澤井監督は旧郵政省の保養施設と答えている。貧乏くさくない劇団四季イメージの郊外の大きな稽古場[15]
  2. ^ 澤井監督は製作発表の席でも20歳の薬師丸を撮ってみたいと抱負を述べている。また、映画の虜にすることで、普通の大学生に戻ることや〔引退して〕嫁入りするような逃げ道を断ちたいとも宣言した[22]
  3. ^ 同時に藤沢は推理小説を読む資格がないのかもと自嘲している。
  4. ^ その場合には真犯人を途中で観客に明かし、警察がどう突き崩すかというヒッチコック風のサスペンスに仕立てることも考えていた[28]
  5. ^ 澤井は、名作は逆にカチッとできすぎているので、あまり参考にはならなかったと感想をもらしている。
  6. ^ 澤井はなんで女子大生に性教育しないといけないかと、ライティングの合間に2人は楽しそうに話していたと書かれている[50]
  7. ^ 女性スタッフも反対した。
  8. ^ 参加したファンには弁当と景品のTシャツが支給された[60]
  9. ^ お金でエキストラを集めたら1人1万円で1500万円。角川映画、アイドル映画をやってよかったと澤井監督は答えている[60]
  10. ^ 伏し目では嘘をついているように見えるから。
  11. ^ 和田誠は、このシーンはあっても良かったと感想を述べた[56]
  12. ^ 澤井がヒッチコックも多用していると反論したが、妹尾は「ヒッチコックの方が悪い」と返した[56]
  13. ^ 和田誠は対談でVサインはやり過ぎだと反対意見を述べている[56]
  14. ^ 「誰がリークしたかは、宙吊りです。」〔ママ
  15. ^ 第1位の伊丹十三監督の「お葬式」とは僅差[2]

出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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映画「太陽の季節」  1956

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太陽の季節』(たいようのきせつ)は、石原慎太郎短編小説。裕福な家庭に育った若者の無軌道な生活を通して、感情を物質化する新世代を描いた作品で、石原の出世作である。ストーリーが倫理性に欠けることで、発表されるや文壇のみならず一般社会にも賞賛と非難を巻き起こした[1]

1955年(昭和30年)、文芸雑誌『文學界』7月号に掲載され、第1回(1955年度)文學界新人賞を受賞。翌年1956年(昭和31年)1月23日には、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞。単行本は1956年(昭和31年)3月15日に新潮社より刊行された。文庫版は新潮文庫で刊行されている。

作品成立・概要

ストーリーは石原慎太郎の弟・石原裕次郎が、ある仲間の噂話として慎太郎に聞かせた話が題材になっているという。また、文芸誌に発表した処女作『灰色の教室』にも、本作の題材になった話が1エピソードとして収録されている(ただし、登場人物の名前は異なる)。石原は後年、本作を書くに当たり「インモラルという人間にとってはいわば永遠の主題を、現代のアンファン・テリブルにかぶせて書いたら大人たちは少しはどきりとするだろうと思った」と自らの小説『弟』の中で語っている。

文學界新人賞に応募する際、石原は「出だしの外連で相手の目を引きつけるため」として、作品の冒頭にシモーヌ・ド・ボーヴォワールの書いたマルキ・ド・サドの作品についての評論の一節をエピグラフとして付けていたが、賞の選考段階で選考委員から「エピグラフを外したらどうか」という意見が出たため、石原が『文學界』の編集部に呼ばれ編集長から「エピグラフを外した方が良い」と告げられると、石原は「エピグラフを付けた効果はあった」と判断して外すことに同意し、エピグラフを外した形で受賞が決定した。

雑誌掲載時、題名の横に、「健康な無恥と無倫理の季節! 眞の戦後派青年像は生れた」というキャッチコピーが付され[1]、単行本が刊行されると芥川賞受賞も相まり、ベストセラーとなった。なお、この時代は神武景気といわれる好景気で、1956年(昭和31年)度の「経済白書」には、「もはや戦後ではない」という文言が記された時代であった[1]。単行本・文庫本を合わせた現在までの発行部数は100万部を越える。

1956年(昭和31年)5月に映画化され人気を博すが、その内容が問題になり、制作者の内部機関だった「映画倫理規程管理委員会」が外部の第三者も参加する「映画倫理管理委員会」(現・映画倫理委員会と改められるきっかけとなる[2]

石原が幼少期を過ごした神奈川県逗子市の逗子海岸には、「太陽の季節 ここに始まる」という彼の自筆が入ったモニュメントが建立されている。

2002年(平成14年)にテレビドラマ化されたが、ストーリーは小説と全く異なる。

あらすじ

高校生・津川竜哉はバスケット部からボクシング部に転部し、ボクシングに熱中しながら部の仲間とタバコバクチ・女遊び・喧嘩の自堕落な生活を送っている。街でナンパした少女の英子と肉体関係を結び、英子は次第に竜哉に惹かれていく。だが竜哉は英子に付き纏われるのに嫌気がさし、英子に関心を示した兄・道久に彼女を5千円で売りつける。それを知った英子は怒って道久に金を送り付け、3人の間で金の遣り取り(契約)が繰り返される。

ところが英子が竜哉の子を身籠ったことがわかり、妊娠中絶手術を受ける。手術は失敗し英子は腹膜炎を併発して死亡した。葬式で竜哉は英子の自分に対する命懸けの復讐を感じ、遺影香炉を投げつけ、初めてを見せた。竜哉は学校のジムへ行き、パンチングバッグを打ちながら、ふと英子の言った言葉を思い出した。「何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの」。竜哉はその瞬間見えた英子の笑顔の幻影を夢中で殴りつけた。

文學界新人賞・芥川賞の選評

『太陽の季節』は受賞作にはなったものの、選考委員の評価は必ずしも高いとは言えず、反倫理的な内容についても評価が分かれた。作品にみなぎる若々しい情熱が評価され激賞される一方で、同時に賛成派からも、文章の稚拙さや誤字があるなど多くの欠点が指摘されている。

文學界新人賞の選評者5名中、賛成派が伊藤整井上靖武田泰淳の3名。反対派が平野謙吉田健一の2名[3]芥川賞の選評者9名中、賛成派が舟橋聖一石川達三、井上靖の3名。しぶしぶ支持派が瀧井孝作川端康成中村光夫の3名。強固な反対派が佐藤春夫丹羽文雄宇野浩二の3名であった[4]

なお、文藝春秋社の内部からも否定的な声があがり、当時『文學界』の編集者だった尾関栄は、「編集部員の一人が熱烈に支持したので、芥川賞候補にノミネートしたが、個人としては好きになれなかった。性器で障子を破るシーンにしても、武田泰淳さんの『異形の者』のなかにすでに同様の場面があり、賞に値するかどうかで相当迷った」と回想している[5]。刊行本が文藝春秋からでなく新潮社になったのも、当時、文藝春秋出版部長だった車谷弘が、「俺の目の黒いうちはこんなものは出せん」と出版を許さなかったからだと、同社元専務の西永達夫が語っている[1]

賛成派

伊藤整は、「いやらしいもの、ばかばかしいもの、好きになれないものでありながら、それを読ませる力を持っている人は、後にのびる」と推奨し[3]武田泰淳は、「彼は小説家より大実業家になるかも知れない」と述べている[3]

石川達三は、「欠点は沢山ある。気負ったところ、稚さの剥き出しになったところなど、非難を受けなくてはなるまい」、「倫理性について〈美的節度〉について、問題は残っている。しかし如何にも新人らしい新人である。危険を感じながら、しかし私は推薦していいと思った」とし、「この作者は今後いろいろな駄作を書くかも知れない。私はむしろ大胆に駄作を書くことをすすめたい。傑作を書こうとする意識はこの人の折角の面白い才能を萎縮させるかも知れない」と述べている[4]

舟橋聖一は、「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な〈快楽〉と、素直に真っ正面から取り組んでいる点だった」とし、「彼の描く〈快楽〉は、戦後の〈無頼〉とは、異質のものだ」と評している[4]。また、「佐藤春夫氏の指摘したような、押しつけがましい、これでもか、これでもかの、ハッタリや嫌味があっても、非常に明るくはっきりしているこの小説の目的が、それらの欠陥を補ってあまりあることが、授賞の理由である」と述べている[4]

井上靖は、「その力倆と新鮮なみずみずしさに於て抜群だと思った」とし、「問題になるものを沢山含みながら、やはりその達者さと新鮮さには眼を瞑ることはできないといった作品であった」、「戦後の若い男女の生態を描いた風俗小説ではあるが、ともかく一人の―こんな青年が現代沢山いるに違いない―青年を理窟なしに無造作に投げ出してみせた作品は他にないであろう」と述べている[4]

消極的支持派

瀧井孝作は、「小説の構成組立に、たくみすぎ、ひねりすぎの所もあるが、若々しい情熱には、惹かれるものがあった。これはしかし読後、“わるふざけ”というような、感じのわるいものがあったが、二月号の『文學界』の『奪われぬもの』というスポーツ小説は、少し筆は弱いけれど、まともに描いた小説で、これならまあよかろうと思った」とし、「この作家は未だ若くこれからだが、只、器用と才気にまかせずに、尚勉強してもらいたい、と云いたい」と注文を出している[4]

中村光夫は、「未成品といえば一番ひどい未成品ですが、未完成がそのまま未知の生命力の激しさを感じさせる点で異彩を放っています」と述べつつも、「常識から云えば、この文脈もところどころ怪しい。〈丁度〉を〈調度〉と書くような学生に芥川賞をあたえることは、少なくも考えものでしょう」と誤字を指摘し、「石原氏への授賞に賛成しながら、僕はなにかとりかえしのつかぬむごいことをしてしまったような、うしろめたさを一瞬感じました」、「しかしこういうむごさをそそるものがたしかにこの小説にはあります。おそらくそれが石原氏の才能でしょう」と述べている[4]

川端康成は、「私は『太陽の季節』を推す選者に追随したし、このほかに推したい作品もなかった」とし、「第一に私は石原氏のような思い切り若い才能を推賞することが大好きである」、「極論すれば若気のでたらめとも言えるかもしれない。このほかにもいろいろなんでも出来るというような若さだ。なんでも勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいないだろう」と述べている[4]

反対派

吉田健一は、「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写した作品」と酷評し[3]、「ハード・ボイルド小説の下地がこの作品にはある」とした上で、「その方を伸ばして行けば、『オール讀物』新人杯位まで行くことは先づ請け合へると思ふ」と述べている[3]

平野謙は、「私などの老書生にはこういう世界を批評する資格がない」とさじを投げた[3]

丹羽文雄は、「若さと新しさがあるというので、授賞となったが、若さと新しさに安心して、手放しで持ちあげるわけにはいかなかった。才能は十分にあるが、同時に欠点もとり上げなければ、無責任な気がする」とし、「プラス・マイナスで、結局推す気にはなれなかった。私には何となくこの作品の手の内が判るような気がする」と述べている[4]

佐藤春夫は、「反倫理的なのは必ずも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸として最も低級なものと見ている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリスト興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」とし[4]、「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。そうして僕は芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視している。僕にとって何の取柄もない『太陽の季節』を人々が当選させるという多数決に対して、僕にはそれに反対する多くの理由はあってもこれを阻止する権限も能力もない」と投げやりになりながら、「僕はまたしても小谷剛を世に送るのかとその経過を傍観しながらも、これに感心したとあっては恥しいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わないよと念を押し宣言して置いた」と批判している[4]

宇野浩二は、「読みつづけてゆくうちに、私の気もちは、しだいに、索然として来た、味気なくなって来た」とし、「仮に新奇な作品としても、しいて意地わるく云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャナリズム)に迎合するように、(中略)〈拳闘〉を取り入れたり、ほしいままな〈〉の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に、(中略)書きあらわしたり、しているからである」と批判している[4]

作品評価・解釈

『太陽の季節』は発表当時、新しい風俗として話題作となり、賛否両論で文壇を賑わせたが[1]、文学的な観点からの本格的な論究はあまり多くはない。この件について、奥野健男は文庫版の解説の中で「既成の文学者たちが、先入観を持ってこの作品を否定的に眺め、まともに取り上げようとしなかったため」と分析している。「新しい風俗」とされたことについても奥野は「このような風俗は昔から避暑地にはざらに転がっていた。ただ世間も作家もそれを知らなかっただけ」としている。

山本健吉は、「スポーツ青年の無道徳な生態」を描いた『太陽の季節』について、以下のように評している[6]

これはたいへん魅力に富んだ小説だが、現代小説の行動性は、このような思考停止の状態においてしか、現われないのであろうか。似たような青年を描いても、三島は彼の抱いている小説美学必然として現われてくるが、この小説では、完全に風俗小説的な場に風化している。そしてそれを、深刻に意味づけようとする作者の試みが、宙に浮いている。 — 山本健吉「文芸時評」[6]

村松剛は、三島由紀夫の『沈める滝』のドライ青年の主人公・昇が、その3か月後発表の『太陽の季節』の主人公の先駆的存在となっているとし、三島の文体が石原に影響したことを指摘している[7]

『太陽の季節』が発表された時期、三島由紀夫は随筆の中で、学生や学校を卒業したばかりの人の中にもいる「通人」が、その知識を披露する時に能弁になり、無意識に「不自然な老い」を装う傾向となり、かつて自分自身も「学生文学通的文章」を書いていたため、そういった「若い趣味人」の文章に出会うと恥ずかしい思いがあると語り[8]、「学生にふさはしい趣味は、おそらくスポーツだけであらう。そして学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけてゐても、下には健康が、見え隠れしてゐなくてはならない」と考察しながら、「最近私は、『太陽の季節』といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、書かれてゐたことであつた」と評している[8][注釈 1]

また『太陽の季節』発表5年後に三島はこれを本格解説し、あらためて読み返すと、多くのスキャンダルを捲き起した作品にもかかわらず、「純潔少年小説」、「古典的な恋愛小説」としてしか読めないことに驚いたとし、「『太陽の季節』の性的無恥は、別の羞恥心にとつて代られ、その徹底したフランクネスは別の虚栄心にとつて代られ、その悪行は別の正義感にとつて代られ、一つの価値の破壊は別の価値の肯定に終つてゐる。この作品のさういふ逆説的性格が、ほとんど作者の宿命をまで暗示してゐる点に、『太陽の季節』の優れた特徴がある」と評しながら[10]、極度に「〈〉といふ観念」を怖れる竜哉は、「〈愛〉といふ観念」に奉仕するため恋愛をする「ロマンチック文学の恋人たち」とは逆だが、それはオクターヴ(スタンダールの『アルマンス』の主人公)が不能のために「〈愛〉といふ観念」を怖れるのと同様、男女関係の進行過程に、「いやでも〈愛〉が顔を出さなければならぬといふ強迫観念」を読者に与え、それは一般的な恋愛小説の主人公が「〈心ならずも〉愛するにいたるサスペンス」と同じで、『太陽の季節』では、「英子の死」により、「〈愛〉はあからさまにその顔を現はす」と説明し、「ここに小説家の工みがあるけれど、こんな救ひのために、『太陽の季節』は作品として本質的な恐怖をもたらさない」とし、その代りに竜哉の「たえざる恐怖」が深い印象を与えると解説している[10]

また、一定の系列がある「竜哉の恐怖の対象」は、「情熱の必然的な帰結である退屈な人生」と、「情熱が必然的な帰結を辿らなかつたときの、人生と共に永い悔恨」の二つで、「この二つのどちらか一つを、人は選ぶやうに宿命づけられてゐる」と三島は説明し[10]、『太陽の季節』が「夏の短かいさかりのやうな強烈で迅速な印象」を与えたのは、この二つの「恐怖」に対する青年層の共感があり、象徴的意味を看取したためで、竜哉が「〈愛〉の観念の純粋性」を救うためには、「愛の対象」(英子)が死に、竜哉自身は「悔恨」に沈まなければならず、竜哉が「〈愛〉の観念」を全面的に受け入れるなら、「世俗に屈服」し、古い慣習的な象徴であるところの〈丹前をはだけ〉て子供を抱かなければならないという、「観念的な図式」が明確に作品に示されていると解説している[10]。また、作者・石原が意図した、その観念的図式の構成とは無関係に、竜哉が別の顔を見せる細部の美しい挿話について、以下のように評している[10]

この作品そのものよりも、この物語が水溜りにうかんだのやうに光彩を放つてゐるとすれば、その水溜りのはうで人を感動させたのだとも言へよう。従つて、この小説にちらりと顔を出す、最も美しい水溜りの一部は、固い腹筋を誇る父の腹にパンチをくらはしてを吐かせ、その償ひに自分のめちやくちやにされた顔を示し、しかもそれが生温かい肉親の心配をしか呼び起さぬのを見て失望する竜哉の別の肖像画である。志賀直哉氏の「和解」以来、かういふ美しい父子の場面は、あまり描かれたことがなかつた。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[10]

さらに三島は、『太陽の季節』はスキャンダラスどころか、「つつましい羞恥にみちた小説」ではないかと提起し、障子紙を破って突き出される男根の場面も、「中年の図々しい男なら、そのまま障子をあけて全身をあらはす筈」だとし、英子の愛に素直になれない竜哉の「羞恥」について以下のように解説している[10]

ひたすら感情バランス・シートの帳尻を合はせることに熱中し、恋愛の力学的操作に夢中になり、たえず自分のをいつはり、素直さに敵対し、自分の情念のゆるみを警戒するのは、ストイシズムの別のあらはれにすぎないではないか? 恋をごまかす優雅な冷たい身振の代りに、恋をごまかす冷たい無駄な性行為をくりかへすのは、結局、或る純粋な感情のときめきを描くために、ロマンチックの作者が月光を使つたやうに、扇の代りに性行為を使つただけではなからうか?……これだけ性的能力を誇示した小説にもかかはらず、この主題が奇妙にスタンダールの不能者を扱つた小説と似てゐるのは偶然ではない。 — 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)[10]

そして、その「〈愛〉の不可能と〈現実〉との関はり合ひ」という石原の「もつとも大切な主題」は、のちに発展して秀作『亀裂』を生むと三島は解説している[10]

中森明夫は、『太陽の季節』の主人公・竜哉の「心性」は、「〈おたく〉(個に自閉して、他者性を欠いた心性のありようの総体)」の「メンタリティー」と極めて近く、それはいわば、「もてる〈おたく〉、アクティブな〈おたく族〉」と呼べるかもしれないとし[11]、「〈おたく〉の誕生は豊かな社会―すべて(物質的に)満たされている、ゆえに引きこもり、他者性を欠いて、決して(精神的に)満たされることのない社会―という存在条件が不可欠」であるゆえに、「『太陽の季節』の主人公の心性と存在環境は、〈おたく〉の誕生に三十年は先行していたとも言える」と考察している[11]。また中森は、オウム真理教による地下鉄サリン事件(「おたく世代のテロ犯罪」とも呼ばれた)の、「すべて満たされている、ゆえに変化のない日常の息苦しさに耐えられず、世界破壊を夢見る若者たちが現れる―という透視図」は、1950年代後半の石原慎太郎の『亀裂』と、三島由紀夫の『鏡子の家』、1960年のフェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』にすでに先見的に描かれていたと分析している[11]

太陽族と映倫

『太陽の季節』の芥川賞受賞を受けて『週刊東京』誌で行なわれた石原慎太郎と大宅壮一の対談で、大宅が「太陽族」との言葉を用いたことから、特に夏の海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者(慎太郎刈りサングラスアロハシャツの格好をしている不良集団)のことを指す言葉として流行語化した[12]

また、本作の映画化に続き制作された、同じく石原慎太郎原作の『処刑の部屋』(1956年6月公開)、『狂った果実』(1956年7月公開)を「太陽族映画」と称して、未成年者の観覧を禁止するなどの自主規制が各地で実施され[13]、社会現象ともなった。この「太陽族映画」規制の問題は、映画業界以外の第三者を加えた、現在の映画倫理委員会(映倫)が作られるきっかけとなった。

問題の背景として「太陽族映画」を観て影響を受けたとして、青少年が強姦や暴行、不純異性行為など様々な事件を起こし社会問題化した[14]ことがあった。

映画

太陽の季節
Season of the Sun poster.jpg
監督 古川卓巳
脚本 古川卓巳
原作 石原慎太郎
製作 水の江滝子
出演者 南田洋子長門裕之石原裕次郎
音楽 佐藤勝
撮影 伊佐山三郎
編集 辻井正則
配給 日活
公開 日本の旗 1956年5月17日
上映時間 89分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 1億8564万円[15]
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1956年(昭和31年)の日活作品。ストーリーは原作にほぼ忠実。なお、原作者の弟である石原裕次郎が脇役として出演しており、これがデビュー作であった。裕次郎はもともと原作に登場する文化風俗などを兄に代わって説明するような立場で関わっていたが、役者の数が足りなくなったため急遽出演することになったという。

この映画は、長門裕之南田洋子が結婚するきっかけともなった。

キャスト

スタッフ


アニメ

キャスト

テレビドラマ

太陽の季節
ジャンル テレビドラマ
放送時間 日曜日21:00 - 21:54(54分)
放送期間 2002年7月7日 - 9月15日(11回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 TBS
演出 土井裕泰
吉田健
脚本 渡邉睦月
岡本貴也
出演者 滝沢秀明
池脇千鶴
岡田義徳
松本莉緒
高岡蒼甫
松坂慶子
音声 ステレオ放送
エンディング 滝沢秀明「キ・セ・キ」
時代設定 現代

特記事項:
東芝日曜劇場」の最終作品。
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2002年(平成14年)7月7日から9月15日まで毎週日曜日21:00 - 21:54に、TBS系の「東芝日曜劇場」枠で放送された。

石原の小説から題名だけを頂いた物で、内容は全くのオリジナル作品。銀行に融資を打ち切られて自殺に追い込まれた父の仇をとるため、その銀行家の息子からすべてを奪おうとする主人公・竜哉の復讐劇と、交差点で偶然出会った足に障害を持つ少女・英子との切ない恋愛を描く。

このドラマを最後に東芝がスポンサーを降り(2009年10月クールの「JIN-仁-」より、複数スポンサーの一社として復帰)、東芝日曜劇場は「日曜劇場」と名称を変更した。

キャスト

  • 年齢は公式サイトにて[16]

主要人物

津川竜哉〈20〉
演 - 滝沢秀明(小学生時:薮宏太
慶徳大学3年生。父は借金を抱えて倒産の末、自殺。以来母親の手で育てられた。竜哉はバイトで家計を助けながら必死で勉強。奨学金を獲得して、都内有数の私立大学・慶徳大学経済学部に進学する。
父は気が優しく、真面目で正義感にあふれていたが、人に騙され、悲惨な最期を迎えた。だからこそ、自分は父のようにはなりたくない。人生の勝ち組になってやる。そう心に誓った竜哉は、自分も裕福な息子だと偽り、慎二ら内部生に近づいていく。
全てを持っている慎二に嫉妬し、慎二の婚約者であり小宮山グループ令嬢の由紀に近づくが、ある日、英子と出会い、自分を理解してくれる彼女に安心感を覚えるようになる。
和泉英子〈20〉
演 - 池脇千鶴
ピアニスト・和泉響子の娘として生まれてきた英子。幼いころから響子によるピアノのレッスンを受けたが才能のなさゆえに、ピアニストになることを断念。
そんな英子の楽しみは、家で子供たちにピアノを教えること。そして、作曲をすることだった。そんなある日、竜哉と出会った英子は彼の本来の姿を見抜き、一途に竜哉を愛するようになる。
川野耕平〈20〉
演 - 岡田義徳(小学生時:堀沢憲己)
慶徳大学1年生で、大学の駅伝部に所属。竜哉の幼なじみ。唯一竜哉の過去を知る男。
小学生の時、いじめられっ子だった耕平をかばってくれたのが竜哉で、以来二人は無二の親友となるが、中学の途中で耕平は転校してしまう。走ることが好きで、将来ランナーを目指し、駅伝の強い慶徳大学の体育推薦を目指すが失敗。2浪の末、入学した。大学で再会した竜哉は別人のように冷たく、耕平との過去を否定する。
佐原慎二〈20〉
演 - 高岡蒼佑
慶徳大学3年生。若葉銀行頭取の次男で仲間内でもナンバーワンの家柄。
世間知らずの苦労知らずで温室育ちゆえ、人を疑うことを知らず、竜哉のことも全く疑うことなく、本当の友達だと思っている。そして、竜哉が由紀を奪おうとしていることにも気付いていない。
小宮山由紀〈20〉
演 - 松本莉緒
桜女学院文学部3年生。慎二の幼なじみであり婚約者。小宮山不動産の社長令嬢で成金の一人娘。
慎二から竜哉を紹介され、どこか陰のある、強引な竜哉にどんどん惹かれてゆく。

竜哉と英子の関係者

津川路子〈48〉
演 - 宮崎美子
竜哉の母。夫とは恋愛結婚し、幸せな結婚生活を送っていた。しかし、夫が借金を残したまま自殺。
相続放棄した路子は、息子・竜哉を連れて夫と暮らした町を後にして故郷に戻った。以来、女手ひとつで竜哉を育て上げる。
津川伊織
演 - 吹越満
竜哉の父。故人。小さなプレス工場を細々と経営していた。家族思いで気が優しく、正義感あふれた理想の父親だった。
しかし、工場の経営に失敗、資金繰りが悪化してしまう。竜哉が小学4年生の時、二人を残して自殺を遂げる。
平野民代〈38〉
演 - 高橋ひとみ
和泉家に使える住み込みの家政婦。響子に憧れ、少しでもそばにいたくて和泉家の家政婦を志望した。ゆえに主人の響子には絶対服従である一方、その娘の英子に対しては非常に厳格。
和泉響子〈46〉
演 - 松坂慶子
英子の母。かつては注目されたピアニストだったが、最近では世間の辛らつな批評と自分の能力の限界に苦しんでいる。
ストイックな響子が立った一度だけ激しい恋に落ちた。だが、男は響子の元から去っていった。妊娠していた響子はたった一人で子供を産み育てることを決意する。
英子の右足が事故で不自由になってしまったことに責任を感じ、必要以上に過保護になる。

慶徳大学

本城直人〈20〉
演 - 忍成修吾
慶徳大学3年生。プレイボーイ、かつマメ男。携帯電話のメモリーの9割は女友達の電話番号。官僚の息子で、小学校から、慎二・吉彦・笙子たちとはずっと一緒の学校で学んできた。慎二とは特に仲がよく、唯一リスペクトしている。
しかし、竜哉の登場以降、今まで自分が占めていたポジションに竜哉を置くようになり、嫉妬とも羨みともいえる感情を抱くようになる。
小田切吉彦〈20〉
演 - 新井浩文
慶徳大学3年生。大学付属小学校からエスカレーター式に上がってきた内部生。
小田切総合病院・院長の長男で一度は医学部を目指したが、理系科目が苦手で挫折。今も追試を受けてはギリギリパスの繰り返し。慎二や直人は女にモテるのに何故か吉彦だけがモテない。
白川笙子〈20〉
演 - 石橋けい
慶徳大学3年生。大学付属小学校からエスカレーター式に上がってきた内部生。
ホテル王の一人娘で、プライドが高く独特の特権意識を持っている。慎二たちとは、男女の関係を超えた仲間意識を持っている。
大森隆夫〈19〉
演 - 森本亮治
慶徳大学一年生。駅伝部に所属し、日々練習に励んでいる。
浅野哲也〈19〉
演 - 平田竜也
慶徳大学一年生。駅伝部に所属し、日々練習に励んでいる。
内田太一〈19〉
演 - 小野健太郎
慶徳大学一年生。駅伝部に所属し、日々練習に励んでいる。
上島利久〈27〉
演 - 大倉孝二
慶徳大学駅伝部の熱血コーチ。一年生の強化訓練担当。
慶徳大学のOBで、箱根駅伝に出場した経験を持つ。夢は「慶徳大学黄金期の復活」。幽霊部員である竜哉の才能を見抜く。

その他

小宮山亮三〈60〉
演 - 浜田晃
小宮山不動産社長。由紀の父。由紀のことを溺愛している。
町の小さな店舗から、一代で財を成した日本有数の総合デベロッパーに育て上げた平民上がりの叩き上げ。全て自ら決めてしまう成金のワンマン社長。そのワンマン体質と単純な性格が社内にはびこり、それが最近の業績悪化につながっている。
折原要〈41〉
演 - 遠藤憲一
亮三が経営する小宮山不動産の事業部長。「湾岸再開発プロジェクト」の陣頭指揮に当たっている。
社長に能力を買われ、快調にキャリアを伸ばしてきた。実力で全てつかみ、今の地位を獲得してきた。そんなある日、昔の自分と同じ目をした青年・竜哉と出会う。
橘医師〈35〉
演 - 深江卓次
英子の担当医で十年以上英子を診ている。
村山奈美
演 - 岩下貴子

桜井あゆな〈12〉
演 - 柳英里紗
英子が教えるピアノ教室の生徒。響子と民代のことは苦手。
沢木マネージャー〈30〉
演 - 乃木涼介
響子のマネージャー。ピアニストとしての響子の人気の低下に焦りを感じている。
柴田聖美〈20〉
演 - 石田理恵
桜女学院大学3年生で由紀の友だち。
安藤はるか〈20〉
演 - 松本まりか
桜女学院大学3年生で由紀の友だち。
藤枝
演 - 森下哲夫

樋口透
演 - 池田努

佐原恒夫
演 - 浅沼晋平

佐原良江
演 - 木村翠

美佐子
演 - 大島蓉子

スタッフ

放送日程

話数 放送日 サブタイトル 脚本 演出 視聴率
第1話 2002年7月7日 - 渡邉睦月 土井裕泰 16.0%
第2話 2002年7月14日 - 吉田健 14.8%
第3話 2002年7月21日 裏切り 17.2%
第4話 2002年7月28日 母の陰謀 土井裕泰 11.8%
第5話 2002年8月4日 監禁 13.3%
第6話 2002年8月11日 暴露 梶原紀尚 11.2%
第7話 2002年8月18日 誘惑 岡本貴也 吉田健 12.8%
第8話 2002年8月25日 衝撃の瞬間 渡邉睦月 加藤新 12.6%
第9話 2002年9月1日 決別 岡本貴也 土井裕泰 12.7%
第10話 2002年9月8日 転落 渡邉睦月 吉田健 13.2%
最終話 2002年9月15日 その愛と死 渡邉睦月
岡本貴也
土井裕泰 14.0%
平均視聴率 13.6%(視聴率は関東地区ビデオリサーチ社調べ)

TBS 日曜劇場
前番組 番組名 次番組
ヨイショの男
(2002.4.14 - 2002.6.30)
太陽の季節
(2002.7.7 - 2002.9.15)
※ここまで東芝日曜劇場
おとうさん
(2002.10.13 - 2002.12.22)
※ここから複数社提供

脚注

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注釈

  1. ^ なお、この三島の随筆を読んだ時のことを、のちに石原は回顧し、「ぼくもあの人(三島)の保護だけは受けられるような庇護本能みたいなのが、ありましたよ」と述べ[9]、『太陽の季節』が上記のように三島に言及されたことに触れ、「あの人が『小説家の休暇』というソフィスティケイテッドなエッセイ集を出したときに、中にチラチラッと一、二行出てくるんですよ。それを見てぼくは文學界新人賞をもらったときよりもジーンときた。ついにこの人の目にとまったという感じがあってね」と野坂昭如に語っている[9]

出典

  1. ^ a b c d e 佐野眞一『てっぺん野郎―本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社、2003年)
  2. ^ 映倫の概要”. 映画倫理委員会. 2013年10月3日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ a b c d e f 「『太陽の季節』および文學界新人賞選評」(文學界 1955年7月号に掲載)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 「第34回芥川賞選評」(1956年1月23日)芥川賞-選評の概要-第34回
  5. ^ 尾関栄(文藝春秋 1989年2月号)
  6. ^ a b 山本健吉「文芸時評」(読売新聞 1955年6月20日号に掲載)
  7. ^ 村松剛「解説」(三島由紀夫沈める滝』)(新潮文庫、1963年。改版1970年、2004年)
  8. ^ a b 三島由紀夫小説家の休暇』(大日本雄弁会講談社 ミリオン・ブックス、1955年)
  9. ^ a b 石原慎太郎野坂昭如の対談「三島由紀夫へのさようなら」(『闘論―君は日本をどうするのか』)(文藝春秋、1975年)
  10. ^ a b c d e f g h i 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)(筑摩書房、1960年)。三島由紀夫『石原慎太郎氏の諸作品』(『美の襲撃』)(講談社、1961年)に所収。
  11. ^ a b c 中森明夫「解説―石原慎太郎の墓碑銘」(『石原慎太郎の文学9 短篇集I』(文藝春秋、2007年)
  12. ^ 難波功士戦後ユース・サブカルチャーズについて(1):太陽族からみゆき族へ (PDF) 」 、『関西学院大学社会学部紀要』第96巻、2004年3月、 163-178頁、2011年2月13日閲覧。
  13. ^ 「太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」『朝日新聞』1956年8月3日付朝刊
  14. ^ 少年犯罪データベース 昭和31年(1956)の少年犯罪
  15. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)128頁
  16. ^ [1]

参考文献

関連項目

外部リンク

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映画「暗黒女子」 22日017

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暗黒女子』(あんこくじょし)は、秋吉理香子ミステリー小説双葉社の『小説推理』において、2012年12月号から2013年3月号まで連載されたのち、2013年に出版された。

ミッション系女子高である聖母女子高等学院を舞台に、同校の女子生徒で生徒たちの憧れの存在であった白石いつみの不可解な死を巡って疑いの目を向けられた文学サークルのメンバーらが朗読で各々犯人と思う人物を告発する物語。

2017年に映画化作品が公開(後述)。

あらすじ

聖母女子高等学院の文学サークルの第61回定例会は、毎年恒例の闇鍋をしながらの自作小説の朗読会であった。いつもは小説のテーマは自由だが、今回は現会長の澄川小百合により、「前会長・白石いつみの死」がテーマに設定された。各メンバー内の小説の内容は、他のメンバーが犯人であると告発し合うような内容であった。

用語

登場人物

澄川 小百合(すみかわ さゆり)
聖母女子高等学院3年生。文学サークルの副会長だったが、いつみの死後に会長を引き継いだ。いつみの死の真相を明らかにするため、一学期最後の文学サークルの定例会で「前会長・白石いつみの死」をテーマに設定する。
白石いつみ(しらいし いつみ)
故人。聖母女子高等学院3年生。聖母女子高等学院の経営者の娘で、文学サークルの会長を務めていた。カリスマ性と完璧な美貌を持ち、他の生徒たちから憧れられる存在だった。ある日、スズランの花を持ってテラスから花壇に転落死した姿が発見される。
二谷美礼(にたに みれい)
聖母女子高等学院1年生。実家は貧乏だが奨学金により聖母女子高等学院に入学した。いつみの勧めでいつみの弟の家庭教師のアルバイトをしていた。
定例会では、古賀園子を犯人として告発する小説「居場所」を朗読する。
小南 あかね(こみなみ あかね)
聖母女子高等学院2年生。料亭「こみなみ」の娘であるが、本人は洋食やスイーツ作りに興味を持っている。文学サークルでもお菓子作りに余念がない。
定例会では二谷美礼を犯人として告発する小説「マカロナージュ」を朗読する。
ディアナ・デチェヴァ
ブルガリアからの留学生。いつみが一年生の頃、ブルガリアに短期留学していた時にいつみと知り合い、好意を抱く。幼少期の怪我が原因で、足を引きずるようにして歩いている。
定例会では、高岡志夜がいつみを憎んでいたと告発する小説「春のバルカン」を朗読する。
古賀 園子(こが そのこ)
聖母女子高等学院3年生。いつみのクラスメイト。亡くなった父の代わりに生家のクリニックを再開するため、医師を目指している。小説を読む際も常に5W1Hを意識している合理的思考の持ち主。
定例会ではディアナ・デチェヴァが魔力を使っていつみを死に至らしめたと告発する小説「ラミアーの宴」を朗読する。
高岡 志夜(たかおか しよ)
聖母女子高等学院2年生。中学2年生の時に執筆したライトノベル「君影草」で作家デビュー。日本語として日本人に自分の作品が読まれることにこだわっており、翻訳化や映像化を頑なに断っている。
定例会では、小南あかねを犯人として告発する小説「天空神の去勢」を朗読する。

刊行情報

映画

同名タイトルの映画が、2017年4月1日に公開。監督は耶雲哉治、主演は清水富美加飯豊まりえ[1]

キャスト

スタッフ

関連商品

脚注

外部リンク

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「禁じられた遊び」 スペイン民謡 ピアノ発表会  予行演習

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ソフトバレーボール

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ソフトバレーボール

ソフトバレーボールとは

 より多くの人々が生涯を通じてバレーボールを楽しむ事ができる事を願って考案された4人制の
バレーボールです。ボールが柔らかいので突き指等の心配もなく、誰にでも安全に、容易に行えて、
性別、年齢、体力、経験、技術のレベルに応じて初歩的なプレーから高度なゲームまで多様に楽しめます。


用具

ボール  ソフトバレーボール用(円周78cm±1cm)
ネット   専用ネット(バドミントン用可)
支柱   高さ2m


コート

バドミントンのダブルスコートを使用



競技方法

① 4人対4人でおこなう。

② ボールは身体のどの部分に当たっても良い。

③ トスでサービスかコートのいずれかを選ぶ。最終セットがある場合は再トスをおこなう。

④ サービスは1回とし、後衛右に位置した者がエンドライン後方のサービスゾーンからおこなう。

⑤ サービス権を持ったチームが時計回りに1ポジションづつ動く。(ローテーション)

⑥ 相手側のサービスしたボールをショート・サービスラインより前でアタック及びブロックしてはいけない。

⑦ サービスが打たれた後は4人のプレーヤーはどの位置にいるときでもアタックやブロックができる。

⑧ パスは3回以内。ただし、ブロックのワンタッチは除く。また、ブロック後のボールはブロック時に
  触れた選手を含めて誰が打ってもよい。

⑨ 1セットは15点のラリーポイント制で、3セットマッチでおこなう。両方14点になった時は、その後
  2点差がつくまでおこなう。ただし、17点で打ち切り、7点先取したチームの勝ちとなる。

⑩ コートチェンジは各セット終了ごとにおこなう。第3セットはいずれかのチームが8点先取した時に
  おこなう。


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岡林信康 フォークの神様

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   週刊朝日のインタビューウ記事を読みました。
60年代後半から70年代初頭に、
「友よ」
「山谷ブルース」
「チューリップのアップリケ」
「それでも自由になりたいの」
などを発表。

今年は50周年記念アルバム「森羅十二象」を発売。



岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 - )は、日本ミュージシャン

実家は教会で、父親は牧師。現在は京都府亀岡市在住。

経歴

生い立ち

父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていた[1][2]。しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県紡績工場に就職。その時期に宣教師ウィリアム・メレル・ヴォーリズに出会い、牧師となるため大阪神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた[1][2]。当地で信康は生まれる。近江兄弟社中学滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年同志社大学神学部入学。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」[2]、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。

フォークシンガーとして

1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石友也、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった[3]。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した[1]。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」[1]

1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した[1]。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る[1]

1971年日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。

4年間の農耕生活

やがて岡林は人ぎらい、街ぎらいとなり、三重県農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒[1]。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める[1][2][4]1973年ソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26番目の秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。この時期はレコードこそ発表はしたが、数度のゲスト出演を除き人前に登場しなかった。

復帰後

数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた[1]。ふと聞いた西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激[1][5]。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた[1]。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え[4]山を降り亀岡市に転居。

1975年には、岡林本人もコロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った[6]。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベストアルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。

しかし『ラブ・ソングス』を音楽評論家の中村とうようが「岡林が演歌をやめてフォークに戻ってきた」と評し、再び「フォークの神様」に戻ることを危惧した岡林は、1978年に偶然テレビで観たピンク・レディーの影響を受けてアルバム『セレナーデ』を発表。これを皮切りに、パロディ色の強い、ニューミュージック路線を展開した[7]。古巣のビクターに再び移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていく。「ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「君に捧げるラブ・ソング」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲である。

1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦にそれまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されたことで、再び新たなスタイルを模索することになる。

1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始し、全国を巡る。また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。

エンヤトットの完成〜現在

1981年ロンドンキング・クリムゾンロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない。日本人のロックを聴かせろ。」と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック「エンヤトット」を思案[7]。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。

1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。その後、東芝日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。

「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。また、前述の日比谷野音ライブに前後した時期から、10年以上「封印状態」にあったURC時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。また、岡林を敬愛するサンボマスターとの競演や、フジロックフェスティバルCOUNTDOWN JAPANなどのロックフェスへの参加、ロック時代の曲を数十年ぶりに再演するミニライブの開催、数々のテレビ出演など、より積極的な活動を行っている。

2009年九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。

2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行った。

2012年、14年ぶりに作詞作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表した。2016年にはフリー・ジャズの山下洋輔とも共演した。

人物

本人は気さくな性格で、コンサートで「友よ」の歌い出しを「ホモよー♪」と自ら歌うほどである。

前述のように、プロテストソングとしての評価は高く、先輩の小室等は、「岡林、よくぞ歌ってくれた」と『昭和は輝いていた』で絶賛していた。ただし、フォークの神様の称号が、一人歩きする苦悩も垣間見たという。

部落差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。

2009年、美空ひばり作詞の「むぎばたけの鳥」を作曲した。

岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」のように関西弁東京弁を混ぜた歌詞もあれば、「山谷ブルース」のように東京弁だけを使用した歌詞もあったりする。

「友よ」は、歌詞の内容からサッカーのJリーグのスタジアムで歌われることがある。大抵は、長期間低迷が続いているクラブのサポーターが低迷脱出を願って試合前などに歌うケースである。

ディスコグラフィ

シングル

  1. ほんじゃま おじゃまします/山谷ブルースビクターレコード SV-1019/1968年5月)
  2. 山谷ブルース/友よ (岡林 + 高石友也とフォーク・キャンパーズ)ビクターレコード SV-1028/1968年9月5日)
    • 「山谷ブルース」は元々メジャーデビュー盤となるはずだった発禁シングル「ほんじゃま おじゃまします」のB面に収められていた。
  3. 流れ者/チューリップのアップリケビクターレコード SV-1043/1969年3月5日)
  4. くそくらえ節/がいこつの唄URCレコード URS-0003/1969年8月1日)
  5. 私たちの望むものは/性と文化の革命ビクターレコード SV-1080/1970年2月15日)
  6. それで自由になったのかい/手紙URCレコード URS-0017/1970年3月5日)
  7. 愛する人へ/ラブ・ゼネレーションURCレコード URS-0028/1970年5月20日)
  8. だからここに来た/コペルニクス的転回のすすめURCレコード URS-0029/1970年10月5日)
  9. それで自由になったのかい(岡林信康・はっぴいえんど、1970年8月9日 全日本フォークジャンボリー実況録音)/手紙URCレコード URS-0017/1970年11月5日)
    • A面の「手紙」は45回転だが、B面の「それで自由になったのかい」は9分弱の収録時間である為、33回転と言う変則盤
  10. 家は出たけれど/君を待っているURCレコード URT-0050/1971年2月20日)
  11. 自由への長い旅(岡林信康・はっぴいえんど)/今日をこえて(岡林信康・はっぴいえんど)URCレコード URT-0052/1971年3月5日)
  12. 手紙/それで自由になったのかい(岡林信康・はっぴいえんど、1970年8月9日 全日本フォークジャンボリー実況録音)URCレコード URT-0053/1971年4月25日)
    • B面の「手紙」は45回転だが、A面の「それで自由になったのかい」は9分弱の収録時間である為、33回転と言う変則盤
  13. 俺らいちぬけた/申し訳ないが気分がいいURCレコード URT-0056/1971年6月25日)
  14. 墜ちた鳥のバラード/いくいくお花ちゃんURCレコード URT-0065/1971年8月25日)
  15. もずが枯木で/お父帰れやビクターレコード SF-1/1971年9月1日)
  16. ゆきどまりのどっちらけ/つばめビクターレコード SF-14/1971年11月5日)
  17. 山谷ブルース/流れ者ビクターレコード 1971年12月5日)
  18. チューリップのアップリケ/私たちの望むものはビクターレコード 1971年12月5日)
  19. 三億円強奪事件の唄 (岡林信康・高田渡)/砂漠URCレコード 1972年1月1日)
  20. 26ばんめの秋/あの娘と遠くまでCBS・ソニー SOLB-86/1973年11月21日)
  21. 誰ぞこの子に愛の手を/怪人二十面相を追いつめろCBS・ソニー SOLB-208/1975年1月21日)
  22. 青い月夜の散歩道/うつし絵へのひとり言(聞き手・黒田征太郎、挿入歌・越後獅子の唄)日本コロムビア CD-252/1975年8月25日)
  23. わかれ雨/橋~実録仁義なき寄合い日本コロムビア 1975年10月5日)
  24. からっぽの唄/ベイビー日本コロムビア 1977年4月25日)
  25. からっぽの唄/五年ぶり日本コロムビア LK-38-A/1977年6月20日)
  26. 淋しき街角/ミツドナイトレイン日本コロムビア LK-84-A/1978年10月4日)
  27. Good-bye My Darling/遠い朝ビクターレコード VIH-1059/1979年9月25日)
  28. Gの祈り/君に捧げるラブソングビクターレコード VIH-1084/1980年4月21日)
  29. ダンスマン/遮光カーテンの貴婦人ビクターレコード VIH-/1980年11月5日)
  30. ラスト・モーニング(TV「DOサタデー」テーマ曲)/たそがれの20世紀ビクターレコード VIH-1570/1982年4月5日)
  31. ペンノレ (岡林信康・サルムノリ、日本語バージョン)/ペンノレ (岡林信康・サルムノリ、韓国バージョン)東芝EMI 1988年11月1日)
  32. Dance Music/君に捧げる Love Song '90東芝EMI 1989年9月1日)
  33. 祈りの朝/祈りの朝(ゴスペススタイル)/祈りの朝(ソロ)東芝EMI 1996年4月17日)
  34. 風詩/乱の舟唄日本クラウン CRSN-525/1998年1月21日)
  35. レクイエム~麦畑のひばり~/山谷ブルース/悲しき口笛お祭りマンボEMIミュージック・ジャパン TOCT-22355/2010年5月12日)
  36. さよならひとつ/遥かなるこの旅を/さくら雨の朝に自主制作盤 ON-1/2012年5月23日)

オリジナル・アルバム

  1. わたしを断罪せよURCレコード URL-1007/1969年8月)
  2. 見るまえに跳べ(URCレコード URG-4001/1970年6月)
  3. 俺らいちぬけた(URCレコード URG-4008/1971年8月)
  4. 金色のライオンCBS・ソニー SOLL-52/1973年)
  5. 誰ぞこの子に愛の手を(CBS・ソニー SOLL-118、1975年)
  6. うつし絵日本コロムビア CD-7140/1975年)
  7. ラブソングス(日本コロムビア 1977年)
  8. セレナーデ(日本コロムビア LX-7050/1978年)・・・全編曲 あかのたちお
  9. 街はステキなカーニバルビクターレコード VIH-6057/1979年)
  10. ストーム(ビクターレコード VIH-28021/1980年)・・・加藤和彦プロデュース
  11. GRAFFITI(ビクターレコード VIH-28059/1981年)
  12. エンヤトットでDancing自主制作 1987年)・・・テープのみ
  13. ベア・ナックル・ミュージック東芝EMI TOCT-5661/1990年)
  14. 信康(東芝EMI 1991年)
  15. MADE IN JAPAN(東芝EMI 1992年)
  16. 風詩日本クラウン 1998年)

ライヴ・アルバム

  • 岡林信康リサイタル(現タイトル:あんぐら音楽祭 岡林信康リサイタル)(URL-1003/1969年6月/1969年3月29日 神田共立講堂)
  • 私たちの望むものは 音楽舎春場所実況録音(1970年8月/1970年4月12・24日 文京公会堂・渋谷公会堂)
  • 岡林信康コンサート(URL-1016〜7/1971年2月/1970年12月1日 神田共立講堂)
  • 岡林信康自作自演コンサート 狂い咲き(URL-1019〜21/1971年11月/1971年7月28日 日比谷野外音楽堂)
  • 1973PM9:00→1974AM3:00(1975年)
  • 岡林信康ライブ 中津川フォーク・ジャンボリー(1979年/1970年8月8-9日 1971年8月7-9日 岐阜県中津川)
  • 岡林信康ロックコンサート(現タイトル:岡林信康ろっくコンサート)(1979年/1970年10月9日 日比谷野外音楽堂)
  • '70岡林信康ロックコンサートPartII(現タイトル:岡林信康壮行会)(1979年/1970年4月24日 渋谷公会堂)
  • グッドイブニング(1980年)
  • 岡蒸気(1993年)
  • 岡林信康ライブ レアトラック(2009年3月)
  • 岡林信康リサイタル 中野サンプラザ・1975(2009年9月)
  • ロックミュージック(2010年11月)

新録ベスト・アルバム

  • 岡林信康(1976年)
  • 歌祭り(2001年)
  • 歌祭りセカンド(2003年)
  • 歌祭りサード(2007年)

企画・アルバム

  • レクイエム〜我が心の美空ひばり〜(2010年1月20日) - 美空ひばりのカバーアルバム。
  • アナザー・サイド・オブ・オカバヤシ~岡林信康、吉岡治を歌う(2013年) - 岡林が吉岡治と組んで五木ひろし、石川さゆり、ロカビリーの山下敬二郎、イラストレーターの黒田征太郎などに書き下ろした楽曲をセルフカバーしたアルバム。

関連ミュージシャン

URC時代

バックバンド

岡林が影響を受けた人物

岡林から影響を受けた人物

曲提供

カバーされた曲

主な出演

テレビドラマ

バラエティ番組

映画

CM

書籍

自著

解説書等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k サンデー毎日、1982年1月3日、10日号44-47頁
  2. ^ a b c d 週刊文春、2011年9月8日号、94-97頁
  3. ^ http://www.warewaredan.com/folk01.html
  4. ^ a b 『伝説 岡林信康』47頁
  5. ^ 『伝説 岡林信康』88-89頁
  6. ^ 【岡林信康】引き出しから奇跡の新曲 美空ひばりからの手紙35年ぶり息吹
  7. ^ a b 山口隆著『叱り叱られ』

参考文献

James Dorsey, “Breaking Records: Media, Censorship, and the Folk Song Movement of Japan’s 1960s.” In Asian Popular Culture: New, Hybrid, and Alternate Media, ed. John A. Lent and Lorna Fitzsimmons. Lanham, MD: Lexington Books, 2013, pp. 79〜107.

関連項目

外部リンク




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生涯スポーツ

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生涯スポーツ

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生涯スポーツ(しょうがいスポーツ、英語: lifelong sport)とは、その生涯を通じて、健康の保持・増進やレクリエーションを目的に「だれもが、いつでも、どこでも気軽に参加できる」[1]スポーツをいう。

概要

都市化少子化などによって外遊びの機会が減少し、体力が低下している乳幼児・児童[2]から、高齢化社会における生きがいを求める高齢者まで、幅広い年代層を対象とするほか、障害者スポーツもこの範疇に含まれる。[3]一般に、生涯スポーツは競技スポーツよりも運動強度が低いのが特徴で、既存のスポーツに加えて、体力に過剰な負荷をかけることなく気軽に行える、さまざまなニュースポーツも考案されている。

文部科学省にはスポーツ・青少年局に生涯スポーツに関する行政を管轄する部署として生涯スポーツ課がある。同省は「国民のだれもが、いつでも、どこでも、いつまでもスポーツに親しむことができる生涯スポーツ社会の実現」のための最重要施策として総合型地域スポーツクラブの全国展開を挙げている。[4]。他方、日本レクリエーション協会をはじめとする関連団体は、レクリエーションを含むさまざまな生涯スポーツの普及・啓発とその指導者育成に関する事業を行っている。

生涯スポーツがさかんなスポーツおよび協会

関連項目

脚注

  1. ^ 保健体育審議会 (1989年11月21日). “21世紀に向けたスポーツ振興方策について(答申) (pdf)”. 2009年1月14日閲覧。
  2. ^ 日本レクリエーション協会. “子どもの体力低下の原因”. 「子どもの体力向上」ホームページ. 2009年1月14日閲覧。
  3. ^ 保健体育審議会 (1997年9月). “スポーツと生涯にわたるスポーツライフの実現”. 生涯にわたる心身の健康の保持増進のための今後の健康に関する教育及びスポーツの振興の在り方について(答申). 2009年1月14日閲覧。
  4. ^ 文部科学省 (2007年). “スポーツの振興と心身の健やかな発達に向けて:生涯スポーツ社会の実現”. 平成19年度文部科学白書. 2009年1月14日閲覧。

関連項目

外部リンク

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ソフトバレーボール・ミニバレーボール

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ゴム製のボール。




ソフトバレーボール

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ソフトバレーボールは、バレーボールから派生した球技福井県小浜市で考え出される。ネットごしにゴム製の柔らかいボールを打ち合い、決められた点(1セット15点)を早く得点することを競う。

1986年日本バレーボール協会がソフトバレーボールの全国的な展開を決定し、生涯スポーツとして普及活動をする。

ルール

ルールは、基本的には6人制バレーボールと同じだが、試合レベルによりホールディング等の許容範囲を緩和する。6人制と異なる点として、アタックラインが無くサービス後はフリーポジションとなること、サービスのネットインが認められないこと、ブロックにおけるオーバーネットの禁止などがある。

ボール
試合球はゴム製、重さ200-220g、周囲77-79cm。色の規定はない。ただしミニソフトバレーボールは、重さ150g、周囲64cm。
コート
バドミントンのダブルスのコート(13.40m×6.10m)。最小限2m幅のフリーゾーンが周囲に必要。
ネット
バドミントン用支柱に補強金具を装着して2mとし、ソフトバレーボール用ネット又はバドミントン用ネットを使用する。
チーム構成
1チームは監督1人、競技者4人、交代競技者4人以内で構成する。監督は競技者を兼ねることも可能。
勝敗
3セットマッチ制。2セットを先取したチームが勝ちとなる。各セット15点先取だが、2点差がつかなければ試合は続行される。ただし、点差に関わらず17点で打ち切り。

ミニバレーボール

類似した競技に「ミニバレーボール」がある。一部ルールが異なるが、4人制・バドミントンのコートを使用という点は共通している。

一説には、1982年京都府長岡京市で誕生したといわれる[1]。他の自治体でも普及している。

脚注

外部リンク


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バレーボール・クラブに入会します

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バレーボール

ウィリアム G. モーガン

バレーボールは、テニスをヒントに、女性や子供が気軽に楽しめるレクリエーションとして1895年2月9日アメリカ合衆国ウィリアム・G・モーガンによって考案された。このころのルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、相手コートに返す際の回数は決まっておらず、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。

1896年、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開した。モーガンは当初このゲームをミントネット(Mintonette)と名付けたが、後にハルステッド(YMCAトレーニングスクール教官)の提案を受け、名称をバレー・ボール(ボレー・ボール、volley ball)に改めた。1952年に現在のようにバレーボール(volleyball)と一語で表すようになった。

バレーボールは各地に点在するYMCAを通じてアメリカ全土に広まっていき、1900年カナダ1906年キューバに紹介された。

第6回極東選手権競技大会(大阪府)での女子バレーボールの試合(1923年)。帽子・スカート・タイツのユニフォームを着て、屋外で開催されている。

日本にバレーボールが紹介されたのは1913年のことで、YMCA体育主事のF.H.ブラウンによってもたらされた。この頃はまだしっかりとルールが出来上がっていなかったので、日本において独自にルールが作られていった。チームの人数は最初は16人であったが、12人に変わり、続いて9人となり現在の9人制バレーボールに近いものが出来上がった。

ヨーロッパにバレーボールが紹介されたのは1920年ごろで、第一次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリアチェコスロバキアポーランドソビエトへと普及していった。このころにはチームの人数も6人と決まっており、すでに現在の6人制バレーボールに近いものが出来上がっていた。ソビエトでは1925年ロシア共産党の中央委員会が『100万人のバレーボール』のスローガンを掲げソ連バレーボール協会を設立し、本格的にバレーボールの発展に取り組んだ。

バレーボールは世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、1924年パリ五輪ではアメリカのスポーツとして紹介された。

1947年には国際バレーボール連盟が結成され、アメリカ式のルールを修正し国際ルールが出来上がった。

1949年に第1回バレーボール世界選手権(男子)がチェコスロバキアで行われた。日本が国際バレーボール連盟に加盟したのは1951年であった。当時、日本のバレーボールの主流は9人制であり、国際試合で使われる6人制バレーボールはまだよく知られていなかった。

1950年代に入ると東欧諸国ではソビエトの高さとパワーに対抗するために技術開発が進められるようになった。特にチェコスロバキアは次々と新しい技術の開発に着手し、速攻、フェイント、ブロックアウトなどの戦術を編み出した。

1952年には女子の第1回バレーボール世界選手権がソビエトで行われた。

1953年に日本で6人制が採用された。

1964年東京五輪からバレーボールが正式種目に加わった。コンビネーション・バレーが確立されたのはこのころからで、回転レシーブ、時間差攻撃など日本独特の技術が編み出された。

日本では協調性を養うスポーツとして、中学校高校の体育で扱うことが多く、一般的に定着した。(この節についての脚注・出典:[2])

ルール

6人制のルールは国際バレーボール連盟が、9人制のルールは日本バレーボール協会が定めている。ここでは6人制のルールについて記述する。日本では、小学生は1セット21点(3セットマッチ/3セット目は15点まで)で行われ、中高生は1セット25点(3セットマッチ/3セット目も25点まで)で行われている。

競技場

バレーボールコート

長辺18m、短辺9mの長方形のラインが引かれたコートを用いる。その中央にはコートを二分する形で幅1m、長さ約10mのネットが張られている。ネットの高さは男子が2.43m、女子が2.24mと定められている。ネットからそれぞれ3mにはアタックラインと呼ばれるラインがある。

コートの外には3m以上の空間(フリーゾーン)、天井までの高さは7m以上が必要とされる。国際バレーボール連盟および日本バレーボール協会主催の競技会では、フリーゾーンは最小限サイドラインから5m、エンドラインから8m、天井の高さは12.5m必要と定められている。

また最低気温(10℃以上)や照度(1000-1500lx)なども規定がある。

用具

ボール
ボールの色は均一で明るい色か、複数色の組み合わせとされるが、大会や試合では同一でなくてはいけない。円周は65-67 cm、重量は260-280g、内圧は0.30-0.325kgf/cm2。現在、全国大会の取り扱いでは、0.31kgf/cm2に統一することとなっている。

ユニフォーム

ジャージ、パンツ、ソックスはリベロ以外の全員がそろっていることが条件。リベロ・プレーヤーは対照的な色のユニフォームでないといけない。ユニフォームのナンバーは1から18番を原則としているが、やむをえない事情があれば、1から99番まで使用することができる。数字の大きさは胸部が15cm以上、背部は20cm以上、字幅は2cm以上でなければならない。チームキャプテンは、胸のナンバーの下に長さ8cm、幅2cmのマークをつける。

チーム

1チームは、6人以上12人以内のプレーヤー、監督1人、コーチ1人、トレーナー1人、医師1人で構成される。前衛・後衛それぞれ3人、計6人で競技を行う。プレーヤーのうち1人をリベロプレーヤーとして登録することができる(中体連・高体連主催の大会では、2名まで登録できる)。

但し、国内大会の競技要項により、部長、マネージャーなどがベンチスタッフとして認められることがある。 現在、全国大会やそれに準じる大会では、監督を含むベンチスタッフを置くには、コーチや指導者としての公認資格の有資格者がいることを条件としている。

国際バレーボール連盟及び日本バレーボール協会主催のシニア競技会(公式戦)においては最大限14名のプレーヤーで構成できる。この場合、リベロを除くプレーヤーは最大限12名登録できる。

キャプテン

キャプテンマーク

リベロを除く上記プレーヤーの内、1名がチームキャプテンとなり、試合中コート内でプレーしている間はゲームキャプテンとして行動する。チームキャプテンがコート外にいる時は他のコート上のプレーヤーがゲームキャプテンとなる。

ゲームキャプテンは試合中断中のとき、競技規則の適用などについて審判員に説明を求めることができる。ゲームキャプテンは監督不在の時、タイムアウトや選手交代の権限を持つ。

競技形式

試合はラリーポイント制で行われ、国内の主な大会、国際試合は5セットマッチで行われる。それ以外の大会では3セットマッチが採用されることがある。

ラリーポイント制 
サーブ権を持つチームの選手がサービスを行うことでボールの打ち合いが始まり、攻撃決定やミス、反則で打ち合いが終わる。これをラリーという。ラリーに勝ったチームが、1点を得ると同時に次のサーブ権を得る。
5セットマッチ
先に25ポイント(第5セットに限り15ポイント)を取ったチームに1セットが与えられ、3セットを先に獲得したチームが勝者となる。ポイントが24-24(第5セットは14-14)となった場合はデュースとなり、どちらかが先に2ポイントの差を付けるまでそのセットは続けられる。
3セットマッチ
先に25ポイントを取ったチームに1セットが与えられ、2セットを先に獲得したチームが勝者となる。ポイントが24-24となった場合はデュースとなり、どちらかが先に2ポイントの差を付けるまでそのセットは続けられる。

タイムアウト

各チームは一回につき30秒間タイムアウトをとることができる。各チームはこの間に作戦を練ったり、選手を休憩させるなどしている。タイムアウトの回数制限は両チームとも各セット2回ずつ。たとえ使わなくても、次のセットに持ち越すことはできない。

また、国際試合などでは、第5セット以外に両チームの内、8点と16点を先取した場合、自動的にプレイが止まる。これを「テクニカルタイムアウト」という。テクニカルタイムアウトの休憩時間は60秒間[3] であり、このルールが適用される大会では第5セット以外の各セットに最低2回プレイが止まる。

プレー中の動作

チームはネットを越えてボールを返すために最大で3回(6人制の場合、正当なブロックは一回として数えない)ボールに触れることができる。1回目のレシーブやブロックの場合を除き、競技者は連続して2回ボールを打つことはできない。現行のルールではボールを返す際に体のどの部位を用いてもよい。

ポジションとローテーション

ローテーション

各プレーヤーはそれぞれ次に示すポジションに就く。

  • 前衛(ネットに近い側):左からフロントレフト(FL)、フロントセンター(FC)、フロントライト(FR)
  • 後衛(ネットから遠い側):左からバックレフト(BL)、バックセンター(BC)、バックライト(BR)

後衛のプレーヤーはネット際でのスパイクやブロックを禁止されるなど、 ポジションに応じてプレーに制限がある。

ポジションはサーブ権を獲得するごとに時計回りに入れ替わり(これをローテーションという)、新たにバックライトに就くことになったプレーヤーがサーブを打つ。 ローテーションの順序は、 バックライト→バックセンター→バックレフト→フロントレフト→フロントセンター→フロントライト の順。

また、後衛のプレーヤーと何度でも交替できる選手リベロプレーヤーを置くことができる。 リベロプレーヤーは、 後衛のプレーヤーと交代してコートに入り、 ローテーションが進行して前衛にまわる前に元のプレーヤーと交代してゲームを離れる。 リベロプレーヤーの交代は、 ラリー中以外のときに 特にゲームを中断せずに行われる。 リベロプレーヤーには、後衛に課せられるプレー上の制限に加えて フロントゾーンでのトスや、ネットよりも上方でボールに触れて相手コートに返球することも禁止される。 リベロプレーヤーは 他のプレーヤーと異なる色のユニフォームを着用する。

主な反則行為

ダブル・コンタクト(ドリブル)
同じプレーヤーが連続してボールに触れた場合。ブロックと1回目のレシーブは除く。
キャッチ・ボール(ホールディング)
ボールがプレーヤーの身体の一部で静止してしまった場合。通称ホール。
ボール・アウト
ボールがコート外に落ちたり、サイドマーカー(通称アンテナ、ネット付近でのコートの内外を示すネットに取り付ける棒)に触れたりその外側を通過して相手側コートに返った場合。
タッチ・ネット
ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触(髪の毛やユニフォームなども含む)は反則である。通称ネッチ。
ペネトレーション・フォールト(オーバーネット)
ネットを越えて相手側のコートにあるボールに触れた場合。自コート側に帰ってくることが確実なボールは除く。1964年東京オリンピックでは、相手(ソ連)のオーバーネットによって日本金メダルが決まった。
フォア・ヒット(オーバータイムス)
自コートから相手コートに返球する間に4回以上ボールに触れた場合。ブロックは1回には数えない。
インターフェア
相手側のコートにあるボールに意図的に触れた場合や相手選手のプレーを妨害した場合。
ペネトレーション・フォールト(パッシング・ザ・センターライン)
プレーヤーがセンターラインを越して相手側のコートに入った場合。センターラインから踏み出なければ反則にならない。
ポジショナル・フォールト(アウト・オブ・ポジション、ローテーションミス)
サーブを打つ瞬間にプレーヤーが規定のポジションに就いていない場合。リベロ・プレーヤーの交代が正当でない場合にも適用される。
アタック・ヒットの反則 
バック・プレーヤーがフロント・ゾーン(アタックラインの延長線上よりネットに近い区域も含む)から跳び上がってネット上端より完全に高い位置のボールを相手コートへ返球した場合。
アシステッド・ヒット 
プレーヤーが味方の他プレーヤーや外部の構造物などの助けを借りてボールをプレイした場合。
サーブに関する反則 
1. 主審がサーブの許可を出したあと、8秒以内にサーブを打たなかった場合(ディレイ・イン・サービス いわゆる8秒ルール違反)。
2. サーブ順を間違えた場合。
3. サーブエリア外またはエンドラインを踏み越してサーブした場合。
4. 味方プレーヤーがネット際でスクリーンを形成して、そのブラインドにサーブを打った場合。

6人制と9人制の共通点と違い

試合後の握手

9人制は主に「ママさんバレー」として日本では行われているが、世界的には普及しておらず、国際試合は6人制で行われている。 9人制では、6人制と比較して、次のような違いがある。

  • 一般男子はコートがやや広い。
  • ネットの高さがやや低い。
  • ボールはママさんバレーは白色とカラーボール(全国大会のみ白一色)、一般は6人制と同じ(6人制はカラーボール)
  • 交代要員は3人以内(6人制では6人以内)。
  • 3セットマッチ、21ポイントで1セット。
  • アタックライン、リベロ、ローテーションが無い(6人制ではある)。
  • プレー中、ネットにボールが触れた場合には、4打以内に相手コートに返せばよい(6人制ではネットに触れても3打以内)。
  • サーブの打ち直しが1回に限り可能(6人制では不可)。
  • ブロックを1打に数える(6人制では1打に含まない)。
  • どの選手もスパイクを打てる(6人制では後衛の選手はアタックラインを越えてスパイクを打てないが9人制にアタックラインは無い)。
  • オーバーネットしない限り、サーブブロック(スパイクでも可)が有効(6人制では反則)。

技術・戦術の変遷

敵チームを欺き、ブロックを外して得点を決めるために、バレーボールでは様々な戦術が用いられている。これらの戦術は、得点が入り次のプレーが始まるまでの間に決められ、サインによって伝達される。多くの場合、セッターが司令塔を務める。

戦術が上手くいけば得点につながりやすい。しかし、戦術を実行するためには、レシーブしたボールがうまくセッターのところに行くことが大事で、ここを崩されると戦術通りの攻撃は実行できなくなる。相手から返ってきたボールをいかに上手く処理するかが、攻撃の成功のカギを握る。

ルールの変遷

考案された当時は、ボールを落とさないようにネット越しに打ち合う以外には特にルールは無かった。1910年頃に日本に伝えられた時には、4人×4人の16人で行われており、日本独自のルールとして、12人制ののち、9人制が普及した。国際バレーボール連盟 (FIVB) では1947年に6人制の国際ルールを制定した。

FIVB主催の大会における主なルール改正としては以下の物が挙げられる[4][5][6]。従来はオリンピックのたびに4年ごとのルール変更だったが、1994年からは変更頻度が上がった。

  • 1965年 ブロックのオーバーネットの許容。
  • 1967年 サーブ5秒以内(1999年に8秒以内に変更)。
  • 1969年 アンテナをサイドラインから20cm外側に取り付け。ボール重量270g±10g。
  • 1973年 パッシング・ザ・センターラインの緩和。
  • 1977年 ブロックのワンタッチをカウントしない。アンテナはサイドバンド上に取り付け。スリーボールシステム(1試合に3つのボールを使用しデッドタイムを無くす)の導入。
  • 1984年 サーブに対するブロックの禁止(FIVBロサンゼルス五輪総会にて)。ファーストコンタクト(1回目のレシーブのこと)における、ドリブル(現在のダブルコンタクト)を許容(アンダーハンドのみ)。
  • 1989年 5セット目のみをラリーポイント制に。セット間2分間。プレー中にベンチからの指示を許可。
  • 1994年 サービスゾーンが、従来の右隅から3mの範囲から、エンドライン一杯 (9m) に広がる(FIVBアテネ世界選手権総会にて)。
  • 1995年 膝から下での打球も、反則ではなくなる。ファーストコンタクトではオーバーハンドも含め、ダブルコンタクト・ホールディング(現在のキャッチ)をとらないことになる。
  • 1998年 リベロ制の正式導入(低身長の選手にも活躍の可能性を与えることが目的)。ボールの内気圧の低減(最大値を旧:0.425kgf/cm2から新:0.325kgf/cm2へ)。カラーボールの使用許可。
  • 1999年 サーブのネットインを認める。5セットマッチの全ラリーポイント制の導入(サーブ権ポイント制では試合時間が一定せず、テレビ放映権が売りにくかったことによる変更)。デュースの際の勝敗は、2点差がつくまで無制限になる。サーブ8秒以内。
  • 2007年 ネット上で両チームの選手がボールを押し合った場合も、プレー続行となる(以前はプレーを止めノーカウントとした)。
  • 2009年 両足より上部の身体のいかなる部分が、相手コートに触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される(以前は両手などがセンター・ラインを超えて相手コートに触れると反則であった)。競技者がネット(上部の白帯は除く)に触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される(以前はネットのいかなる部分も触ると反則であった。ネットに触れてもいいものの、わざとネットを引き下げアタックを打つ等の行為をすると、スポーツマンシップに反する行為として、罰則が与えられる可能性がある)。→2014年に廃止
  • 2011年 第1リベロと第2リベロ同士の交代制限撤廃。
  • 2013年 前年の総会で承認された、指を用いたオーバーハンドサーブレシーブにおけるダブルコンタクト・キャッチの厳罰化適用を、実施延期と発表[7]
  • 2013年
    • チャレンジシステム(ビデオ判定)の試験導入。各チームごと、1セット2回失敗するまで要求可能。
    • 10月に開催するU-23世界選手権で2つの特別ルールを試行。(1)現行の25点制を21点制に変更、これによりテクニカルタイムアウトは8点・16点から、12点に。(2)主審の吹笛後にサーブを打つまでの時間を、現行の8秒から15秒に変更[8]
  • 2014年 ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触は反則とし、2009年の緩和(白帯のみ)が撤回となった